泰東丸沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 22:30 UTC 版)
同日午前9時52分、同様に大泊からの疎開者を乗せて小樽へ向っていた貨物船の泰東丸(877トン)が北海道留萌小平町沖西方25キロの海上において、浮上したソ連の潜水艦L-19の砲撃を受けた。同船には白旗を掲げるも、潜水艦乗組員はこれに気付かせず、砲撃を続行した。泰東丸には機関銃が搭載されていたため、砲撃に対して応戦した。約20分後に機関部への命中弾により「泰東丸」は沈没した。乗員乗客約780名中667名が死亡した。 1974年(昭和49年)から5回にわたり厚生省が海上自衛隊に依頼して泰東丸の捜索を行ったが、成果は無く捜索は断念された。事件後遺体が漂着した小平町に「泰東丸の捜索をすすめる会」が出来、1981年(昭和56年)に地元の漁船が泰東丸らしい沈船を発見。1982年(昭和57年)と1983年(昭和58年)の社団法人全国樺太連盟の調査で、バッテリー、銃弾、茶碗などの泰東丸のものと思われる遺品が引き上げられた。 1983年(昭和58年)に、参議院において「泰東丸の捜索と遺骨収集の促進に関する質問主意書」が提出された。これによると「今年の7月から8月にかけて、全国樺太連盟は泰東丸が沈没したとみられる北海道留萌沖で独自の調査を行った。その結果、泰東丸と思われる船体を発見した。船名の確認までには至らなかったが、機銃弾、時計、バッテリーなど数多くの貴重な遺物を陸上に引き上げ、検討したところ泰東丸であることにほぼ間違いないことを裏づけた」として政府に同船の捜索と遺骨収集を求めた。 これに対し当時の中曽根康弘総理大臣は「泰東丸の捜索に関しては、同船が沈没した海域の沈没船について、1977年(昭和52年)7月に厚生省が防衛庁及び地元関係機関の協力を得て綿密な潜水捜索を実施したが、泰東丸であるとの確認ができなかったという経緯がある。現段階では国の事業として再捜索を行うこと、また、民間団体が自主的に行つた捜索事業に国が資金援助することは困難である」とした上で「沈没船が泰東丸であるとの確認ができれば、今後、残存遺骨の有無の調査等の対策を検討」すると答弁した。 翌1984年(昭和59年)8月5日から北海道や全国樺太連盟の協力を得て厚生省が再調査を行ったが、遺体は発見されず9月28日に調査を打ち切った。
※この「泰東丸沈没」の解説は、「三船殉難事件」の解説の一部です。
「泰東丸沈没」を含む「三船殉難事件」の記事については、「三船殉難事件」の概要を参照ください。
- 泰東丸沈没のページへのリンク