泰時の都市行政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
泰時は鎌倉中(市街地)の都市行政にも様々な手を打っている。東西の陸路の工事を始めたと同じ年、延応2年(仁治元年:1240年)2月に京の町にならって鎌倉中を「保」に分け、それぞれに奉行人を置き、それを市中行政の末端とする。その保々奉行人に「盗人の事」「辻捕の事」「悪党の事」などの治安関係の他に「丁々辻々の売買の事」「小路を狭く成す事」などの禁止・取締を命じている。これが鎌倉で市政らしいことが文献に出てくる最初である。つまり仁治元年(1240年)時点で鎌倉には人が溢れかえり、道の端に小屋を建てたり、あるいは軒下を張り出したりするなどして道の一部を自分の家に取り込もうとすることが多々あったということである。同年11月にはその保の組織を利用して市中の辻々で夜間に篝火を焚かせ、夜の治安を保とうとした。従って『新御成敗状』のオリジナルが鎌倉の法令であったなら、そのオリジナルの「市街地埋葬禁止令」は、泰時が京の市政「保」を鎌倉に適用した延応2年(仁治元年:1240年)以降、つまり仁治3年(1242年)正月からそう遠くない時期と思われている。 泰時の後の経時、時頼の時代になるが、1245年(寛元2年)に先の「小路を狭く成す事」をより具体的に「軒を路に出すこと」「町屋をつくってだんだん路を狭くすること」「小屋を溝の上につくりかけること」と述べてそれを禁止している。これも先に禁止した「小路を狭く成す事」がなかなか止まなかったということである。1251年(建長3年)12月には小町屋(商店)や売買の設けを7ヶ所に限り、翌年には酒を売ることを禁じて鎌倉中の保奉行人に命じて民家の酒壺を調べさせたところ、その総数は37,274壺にものぼったという。鎌倉の人口が推定数万人というのはこの数も参考にしている。これらのことから、泰時の時代から時頼の時代にかけて鎌倉は都市として急激に膨張していったことがわかる。
※この「泰時の都市行政」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「泰時の都市行政」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。
- 泰時の都市行政のページへのリンク