泰時の都市計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
北条得宗家は北条泰時の代から墓を鎌倉の外に持つが、その泰時の死がちょうど仁治3年(1242年)の6月15日であり、泰時はそれまでに都市鎌倉の骨格を作りあげている。まずは御所の移転である。源氏三代の将軍の御所は鶴岡八幡宮東側の大倉御所であった。第4代将軍となる藤原頼経は北条義時の大倉亭に居たがその頼経の御所を嘉禄1年(1225年)に鶴岡八幡宮の南、若宮大路とその東側の小町大路に挟まれた地に建設する。これによって都市鎌倉の中心は大倉から小町大路を中心とした地に移る。小町大路とは現在の小町通りではなく、宝戒寺の前から本覚寺の前までの道である。本覚寺の前で滑川を渡ると大町になる。若宮大路の西側の多くは湿地であったため、屋敷は多くない。 その後の大がかりな土木工事は1233年(貞永元年)、その小町大路の先の材木座海岸の和賀江築港である。それを提案し、泰時の後ろ盾で工事にあたったのは勧進聖の往阿弥陀仏であり、後にその維持管理を引き継いだのが忍性らの極楽寺律宗集団である。これは海からの物流ルートであるが、陸上での物流ルートとして仁治元年(1240年)に「山内の道路を造らるべきの由その沙汰」、「鎌倉と六浦津との中間に始めて道路に当てらるべきの由議定」(後の朝比奈切通)と、現在鎌倉七口と言われるもののいくつかの工事を命じている。
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