安立寺 (川崎市)とは? わかりやすく解説

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安立寺 (川崎市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 14:50 UTC 版)

安立寺(あんりゅうじ)は、神奈川県川崎市多摩区にある日蓮宗の寺院。


  1. ^ 大正3年(1914年)版の『日蓮宗寺院名簿』では、素紫寺跡となっている。
  2. ^ 法類・法縁とは、同じ宗旨・宗派に属し密接な関係を持つ僧侶並びに寺院のこと。中道不二庵及び柳嶋については関連項目を参照。
  3. ^ 武蔵国橘樹郡稲毛領に点在する大本山池上本門寺直末六ヶ寺(法言山安立寺龍燈山善立寺初香山本遠寺秋興山淨元寺興林山宗隆寺法性山圓融寺)の総称。
  4. ^ 長興山妙本寺並びに長栄山本門寺は、昭和16年(1941年)まで1人の住職が2ヶ寺を兼務する「両山一首制」によって護持されていた。(この事から住持職の歴数は「長興長榮両山」もしくは「両山」と書き慣わされる)本門寺創建から安土桃山時代までの約300年間は妙本寺を本拠地として貫首が在山したが、天正19年(1591年)両山12世・佛乗院日惺が徳川家康の江戸入府に伴い本門寺に本拠を遷した。この為、貫首不在となった妙本寺には別当職に相当する「司務職」を置き妙本寺全山を総理統監させた。なお歴代司務職には塔頭首座・本行院の住職が就任する慣わしとなった。
  5. ^ 8世・元成院日亨が一千日を掛けて法華経一千部読誦を成満した事を記念して作られた三界万霊供養位牌に‟武蔵國上菅生郷淨言山安立寺/元禄第四辛未十月十六日”と刻銘されているが、‟淨”の字が埋められている事から元禄4年以降に山号が改められたと考えられる。また‟淨言山”から‟法言山”に改刻された山号額も現存する。なお山号は、開基・佐伯六左衛門吉連の道号(生天院殿淨言日圓居士)と改宗開基・佐伯隼人吉行の道号(淨天院殿法言日正居士)に因んでいる。
  6. ^ 川崎市内にはこの本堂と同年代に建立された長弘寺本堂(幸区・安永5年)や泉澤寺本堂(中原区・安永7年)があり、市重要歴史記念物に指定されている。
  7. ^ 新編武蔵風土記稿 上菅生村 安立寺.
  8. ^ 江戸中期(18世紀末頃)に柴又帝釈天庚申の縁日が始まると、同じ庚申に因む事から庚申信仰庚申の縁日が次第に融合し、主尊である青面金剛明王帝釈天も同質のものとして祀られるようになった。詳しくは庚申信仰を参照。
  9. ^ “主僧”とは住職の事であるが、元文5年(1740年)当時に日現という名の住職は確認できない。但し9世・勇海院日忍と10世・妙成院日朝の没年に45年の開きがある事から、実際には日現が在位したものの何らかの理由で歴世として名が残らなかった可能性も否定できない。
  10. ^ ‟妙法房”・‟但馬房”とも称した。
  11. ^ 全54帖。『法華助顕抄』とも称する。
  12. ^ 本門寺所蔵。長興長栄両山の貫首たる者の心得について記したもので、原文翻刻(判読の便宜上、適宜句読点等を付してある)は次の通り。
    「両山の貫首たらん人は、十歳未満の頃より奇異なる魂ありと人にも見をかれ、諸々の学問に三十ヶ年の春秋をかさね、論談鍛錬なくても叶はず、法談の事は元より一期の本意なり。儒道なくては人の雑談も聞しらず、われも一句の作もあるまじ。歌道あまりにうとからんも悲しかるべし。此等のこと形のごとくにても、手跡比興にては物ごとに事欠くべし。殊更一幅と人の望の時、是肝要の嗜、外見耻にをよびては沙汰の限り也。死生命有り富貴天に在ることは勿論なれども、思のままならば十歳十一歳より四十の不惑の頃まで、夜を日に続で学問し四十一二の頃より師跡をも若し譲らんとならば、世欲をむさぼらず、無二の大道念大慈悲心に住して真俗をも教誡示導し、身にあやまちなく名に疵を付けず、七旬に過ぎて霊山参りを遂げ候はんは、誠に残る所もあるまじき仏法の冥加たるべし。此如く両山の貫首たらん人の心持・能芸をば書置く事なり。左様に十が十調ふ事はいかで有るべき。大概ことかけぬ人の両山の真俗思付候はん人は縦ひ厳密に諸能そろひ候はずとも、万能一心たるべし。」
  13. ^ 安立寺所蔵「大過去帳」には“摩訶衍日等”とある。
  14. ^ 安立寺所蔵「大過去帳」には“大如坊善隆院日秀”とある。
  15. ^ 光立山法林寺(千葉県夷隅郡大多喜町)の31世・慈宣院日調と同一人物であるとすれば、松ヶ崎檀林松崎山涌泉寺の文講(法華文句講主)を務め、嘉永7年(1854年)7月6日に遷化している。
  16. ^ 東山檀林能化時代には‟舜好院”と称した。安立寺所蔵「金糸縫書一遍首題」の箱書にも“天保八酉年/七月日/舜好院/日勇”と記されている。また、歴代住持墓所にある墓誌銘に拠れば文政7年(1824年)当時は“舜光院”と称している。
  17. ^ 東山檀林能化時代には‟日廣”と称した。
  18. ^ 出家寺である妙廣寺に帰山した後は‟智泰院”と称した。
  19. ^ 逝去の際には、弟子とされる慈性山安立院48世・玄持院日幸(生駒戒圓)の計らいで安立院に墓所が設けられた。後に、30世・是心院日修(木田隆進)の代に安立寺に改葬された。
  20. ^ 現・長光山妙蓮寺(神奈川県横浜市港北区)
  21. ^ 超八山妙蔵寺(静岡県伊豆市八木沢)の塔頭寺院。かつては本覺坊の他に學圓坊・圓乗坊もあったが現在は三ヶ寺とも妙蔵寺に合併されている。
  22. ^ 日曻の在山当時は東京都浅草区永住町(現・東京都台東区元浅草二丁目)に存在したが、昭和11年(1936年)8月に現在地に遷された。
  23. ^ 安立寺所蔵「大過去帳」の奥附に拠れば、昭和7年(1932年)当時は“日隆”と称した。この諱は日淵の祖父であり日榮の師父である玄澄院日隆(法性山三光寺22世・一楽山清雲寺34世)に肖ったものと考えられる。
  24. ^ 安立寺入山時に‟隆正院”から‟玄明院”に改めた。


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