沿岸警備隊の活動
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1965年12月31日、陸軍基地が正式に廃止されて同施設は沿岸警備隊の基地となった。その当時、島の南端にある第二次世界大戦時代の建物はまだ大部分が残っていた。沿岸警備隊はガバナーズ島でその活動統合を図り、この島を沿岸警備隊で最大の施設にした。この島は大西洋地域司令部および同地域の第三管区司令部のための活動拠点として使用されていた。1985年までに、島の人口は4,000人(家族は1,000世帯)になった。そのほかギャラティン、モーゲンソー、ダラスといった米国沿岸警備隊巡視船の母港でもあった。 沿岸警備隊は島の活動を7部門に分け、ボートマリーナや世界初の捜索救助訓練学校の追加など様々な改善に着手した。1972年までに、沿岸警備隊はガバナーズ島の南部に幾つかのアパート区画を開設しており、その場所にあった第二次世界大戦時の仮設建造物に取って代わった。立て続く開発期間中も島の中心にあるゴルフコースと空き地は保存された。リゲット・ホールは教室に改装され、他の歴史的建造物は保存および修復された。沿岸警備隊員のコミュニティが島で発展するようになり、消防署や警察署、銀行、店舗、教会、小学校、映画館、モーテル、さらにはボーリング場やバーガーキングまでもやって来た。 この間、ガバナーズ島では注目すべき出来事が幾つか起こった。1986年のリバティ・ウィークエンドに、ロナルド・レーガン大統領は自由の女神像 (ニューヨーク)修復完了での彫像再点灯式典のためこの島を訪れた。1988年12月8日、レーガンと次期大統領ジョージ・ブッシュは、レーガン最後の米ソ首脳会談でソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフとこの島で会談した。1993年7月、南側砲台(サウス・バッテリー)にて国連はハイチ政治指導者間の討議を開催し、そこでガバナーズ島合意が署名されるに至った。沿岸警備隊の時代には2つのランドマーク指定も行われた。1985年2月4日、ガバナーズ島の92エーカー(37ha)部分がアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。1996年6月18日、ニューヨーク市歴史建造物保存委員会はガバナーズ島歴史地区を制定した。 沿岸警備隊の母体である米国運輸省は1995年にガバナーズ島の閉鎖基地を決定した。この移転は年間1億ドルを節約する一連の沿岸警備隊基地閉鎖の一部だった。ガバナーズ島だけでも維持費が年間6,000万ドルになっていたのである。1996年までに、沿岸警備隊は全ての機能と職員住居を事務所および基地に再移設したが、将来が決定するまでの期間に共通役務庁 (General Services Administration) と共同で島を維持する管理人は個別で残した。 他の連邦機関はこの島を管理したがらなかった。1995年、基地の閉鎖を発表したビル・クリントン大統領は、ルドルフ・ジュリアーニ市長とジョージ・パタキ知事が公共活用のために島を保全することに同意できるのなら、1ドルでこの島を譲渡すると提案した。当初ニューヨーク市はクリントンの提案受け入れには消極的だった、というのも同市にとってそれは経済的に有益ではなかったからである。 共通役務庁が2002年までにこの島を公正な市場価格で販売することを規定した1997年の均衡予算法 (Balanced Budget Act of 1997) が可決された時、この問題はさらに深刻になった。この島の売却で連邦政府に5億ドルが入ることも予想された。
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