沢田メモ
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沢田のメモ書きには、1919年(大正8年)から1948年(昭和23年)までの約30年間に、伊田地区で発生した10例の「ほっぱん」の記録が記されており、それぞれ発症もしくは死亡した年月、発症者の年齢性別、病気の経過などが書かれていた。沢田メモに書かれた事例を年代順に並べると以下の通りである。 1919年(大正8年)8月 11歳・女 回復 1920年(大正9年)8月 26歳・女 死亡 1919年(大正8年)8月 17-18歳・男 回復(半年ほど床に伏す) 1925年(大正14年)8月 40歳・男 死亡 当時の幡多病院〔ママ〕の橋本久博士がこれを見て「ツツガムシ病」らしいと言ったが、橋本博士はすぐに札幌へ転任。 1927年(昭和2年)8月21日 56歳・女 死亡 1928年(昭和3年)8月 70歳・女 死亡 検診した丹治医師は「ツツガムシ病」ではないかと言ったという。この後1932年(昭和7年)に海岸沿いの藪を伐採してから一時発症者が減った。 1942年(昭和17年)7月-8月 (不明)・女 死亡 (不明)・女 死亡 25歳・女 回復 以上3名は地区内を流れる伊田川下流の堤防工事に携わっていた。 1948年(昭和23年)7月 10歳・女 回復(1ヶ月ほど床に伏す) メモに書かれていたのはこの10例であるが、これ以外にも複数の発症事例があったという。発症者総数は少ないとはいえ半数以上が死亡しており、助かった者も高熱が1か月ほど続いて生死の境をさまよい、回復するのに半年かかるケースもある。いずれも7月から8月の夏季に発症している。沢田は発症者が出るとその都度見舞いに訪れ、その症状をつぶさに観察し、「ほっぱん」には共通する症状があるのを何度も見てきたといい、次のような重要な話を佐々たちに語った。 共通するのは、いずれも急に寒気に襲われて高熱がはじまり、1週間ほどすると全身に赤い発疹が現れる。この発疹が赤い色をしているうちはいいが、内出血して紫色になると大抵は助からない。そして体のどこか1か所に小豆ほどの大きさのかさぶたができているが、あまり痛みがないらしく、本人は気づかない場合が多い。高熱が出て2、3週間もすると意識が朦朧とし、死への恐怖からうわ言を口走るようになり意識不明となって死亡する。助かった者は、かさぶたが塞がった痕が残る。 かさぶた、塞がった痕と聞いた佐々たちは、ツツガムシ病特有の所見に間違いなさそうだと確信した。 詳細は「ツツガムシ」および「ツツガムシ病」を参照 ダニの一種であるツツガムシ(恙虫)の幼虫は、その生涯で一度だけヒトなどの哺乳類の皮膚に吸着して組織液を吸う習性を持つ。この幼虫の0.1〜3%の個体がツツガムシ病リケッチアを保菌しており、これに吸着されることでツツガムシ病に感染する。ツツガムシ病の大きな特徴は、この吸着時に刺された刺し口(esher)と呼ばれる痕跡が残ることである。 医学を学んだ経験が無いのにもかかわらず、30年近くにおよぶこれらの記録や、症状の経過や特徴を的確に捉えていた古老の観察眼に、佐々は非常に感心したという。
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