名主の祟り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 15:15 UTC 版)
伊田地区に到着した佐々たちは、当地の人々が「ほっぱん」と呼ぶ熱病に罹患したことのある経験者に話を聞こうと考え、伊田地区の顔役である沢田文五郎という古老を紹介され沢田家を訪ねた。佐々らが挨拶と訪問の目的を伝えると、沢田は「正確な時代は不詳ながら」と断わったうえで、伊田地区に伝わる「名主の祟り」の伝承を語った。 その昔、この伊田の村に掛川信吉という名主がいた。ある時、お上が所有する材木を、伊田の村人たちがお上のものとは知らずに使ってしまった。それに逆鱗したお上は名主の掛川信吉に自害を命じ、名主掛川信吉は切腹して果てた。「ほっぱん」は、村人の不注意で命を奪われた名主の、お上と村人に対する恨み祟りである。 — 佐々学『日本の風土病』小林照幸『死の虫』より、一部改変引用 沢田は伊田地区の「ほっぱん」に昔から深い関心を持ち、患者の記録を可能な限り書き残していると言い、次のように語った。明治維新以前のことは分からないが、この病気は明治初年からあって、1882年 (明治15年)、1883年(明治16年)頃には子供から年寄りまで多数の発症者や死者が出たという。伊田の人々は古くから、この名主の祟りによって「ほっぱん」という奇妙な疫病の流行が起き始めたと聞かされている。また病気は突然発病し、その半数以上が助からずに死亡することから、人身御供の白羽の矢が前ぶれもなく立つようなものだと恐れているという。 ここまでの話を聞いた佐々は、不気味な話ではあるが、「ツツガムシ病と考えたのは早計だったかもしれない」と、東京から高知へ、さらに高知市から長い道程を経て調査に来たことを後悔し始めていたという。すると沢田が家の奥からこまごまと多くのメモが書かれた古い手帳を取り出してきた。これが後に「沢田メモ」と呼ばれることになる貴重な記録であった。
※この「名主の祟り」の解説は、「土佐のほっぱん」の解説の一部です。
「名主の祟り」を含む「土佐のほっぱん」の記事については、「土佐のほっぱん」の概要を参照ください。
- 名主の祟りのページへのリンク