名主三九郎の挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
「還住 (青ヶ島)」の記事における「名主三九郎の挑戦」の解説
寛政元年(1789年)6月、青ヶ島の名主三九郎は青ヶ島の見分を行った。その結果、噴火はおさまっており木々の緑も少しずつ戻っているが、飲料水については利用できるかどうか見当がつかない状態であった。三九郎は噴火がおさまっていて危険もないと見られるため、少しずつ島の状態を改善していけば青ヶ島民が島に戻ることが可能であると判断したが、水も住居もない状態で全員を島に戻るわけにもいかないため、まず少数の島民が復興事業を開始し、その後、全島民の帰還を果たすこと考えた。 同年、幕府から青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。翌寛政2年(1790年)3月、青ヶ島島民らに青ヶ島の起返(復興)についての申渡が行われた。寛政4年(1792年)には三九郎らは2度にわたって青ヶ島へ渡航し、島内の様子の再確認と帰島への下準備を行った。八丈島へ戻った三九郎らは島の復興に取りかかれる状態であると報告を行い、八丈島役所では穀物や農具を用意させたうえで三九郎らに「起返」に着手させることとし、寛政5年7月12日(1793年8月18日)、三九郎ら青ヶ島島民20名は2艘の船に乗って復興のために青ヶ島に渡った。そして名主である三九郎ら8名は八丈島へ戻ったが、20名のうち12名が島に残り、島の復興に従事することになった。
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