名主・副戸長
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安政3年(1856年)古庄村組頭、安政5年(1858年)名主となり、文久3年(1863年)古庄村も負担していた府中宿助郷総代を兼ねた。 慶応4年(1868年)戊辰戦争が起こると、駿府城代本多正訥配下東権兵衛を訪ねて宇津ノ谷での官軍邀撃を主張するも、受け入れられなかった。8月徳川慶喜が駿府に入ると、慶喜の家従室賀竹堂に漢籍を講義した。 明治5年(1872年)2月7日名主職が廃止され、静岡県第44区戸長に命じられたが、副戸長に命じられた士族鈴木長に戸長の座を譲り、代わって副戸長に就任した。この年には法泉寺に私塾古荘書院を開いたほか、養豚事業を試みて失敗した。 1873年(明治6年)8月平山省斎により神道大成教教会支社長に任命された。1873年(明治6年)議者総代で披露した言論が県参事南部広矛に認められ、10月16日静岡県十五等出仕となったが、1874年(明治7年)1月13日代わって大迫貞清が権県令となり、2月24日免職となった。 上京後、1874年(明治7年)9月静岡の豪商勝間田清次郎の委嘱により秋田県土崎港で六郷小西某から米を買付け、海運丸に積載して停泊中、台風により船が大破し、25名の死者を出した。
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