名主三九郎の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
寛政9年(1797年)6月、八丈島とは逆の南から一艘の奇妙な船が青ヶ島にやってきた。これは天明5年(1785年)、天明7年(1787年)そして寛政2年(1790年)の合計3回の海難事故で鳥島に漂着した野村長平ら14名が、流木などを材料として船を建造し、やっとの思いで鳥島から脱出した船であった。青ヶ島で復興に従事していた人々は苦しい生活を強いられた中でも彼らを歓迎し、2名の水先案内人をつけたうえで八丈島へ向かうこととなった。流木で作られた船であったが八丈島に無事到着し、14名の漂流民は江戸へ向かい、その後、故郷へ帰ることができた。 青ヶ島で復興に従事していた2名は、さっそく青ヶ島の現状について報告した。報告はおもにネズミの害についてであり、作物はよくできるものの穀類はネズミに食い荒らされるために収穫は皆無であること、芋についてはネズミの害はあるものの収穫が可能であること、作物は噴火以前のようによく実るので、開墾する人数を増やしてネズミの駆除につとめれば、青ヶ島での生活は可能であるといった内容であった。 青ヶ島の現状についての報告を受けた名主三九郎はさっそく青ヶ島へ向かうこととした。寛政9年7月29日(1797年8月21日)、名主三九郎ら14名の青ヶ島島民は物資を積み込み青ヶ島へ向かった。しかし船は猛烈な時化に遭い、青ヶ島へたどり着くことなく閏7月6日(1797年8月27日)、紀州に漂着した。14名の乗船者のうち11名が死亡し、名主の三九郎も死亡した。
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