水俣病に出会うまでとは? わかりやすく解説

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水俣病に出会うまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:43 UTC 版)

宇井純」の記事における「水俣病に出会うまで」の解説

東京都新宿区出身大日本帝国陸軍少将小嶋時久祖父。「純」の名前は6月June生まれ由来する2歳の時、父が茨城県女学校就職したため東京離れ以後、父の転勤に従って引っ越し繰り返した。すでに、この2歳ごろから新聞読み神童といわれた。太平洋戦争中両親郷里である栃木県壬生町疎開し、敗戦後はそこで開拓団生活を送った栃木県立栃木高等学校卒業1956年3月東京大学工学部応用化学科卒業同年日本ゼオン就職同社勤務時代高岡工場塩化ビニール製造工程使用した水銀夜中に川に流す経験をする。 1959年7月22日熊本大学水俣病研究班が「水俣病原因有機水銀であることがほぼ確定的になった」と発表。この発表に強い衝撃を受ける同年日本ゼオン退職1960年3月30日新日本窒素肥料(現・チッソ水俣工場訪問事件解明決意同年4月東京大学大学院応用化学専攻修士課程入学1962年8月11日宇井は、アマチュア写真家桑原史成誘い水俣工場附属病院医師小嶋照和取材小嶋中座した際に書類接写レンズ桑原撮影させた。それは「ネコ400号」実験の結果に基づき酢酸工程水銀廃液濃度別に多数ネコ与え水俣病になるまでの日数違いまでも確認した追試記録だった。 1963年3月現代技術史研究会の『技術史研究』に富田八郎(とんだやろう)のペンネームで「水俣病」の連載を開始連載1967年8月の第38号まで13回にわたった1964年3月1日宇井桑原は、郷里愛媛県大洲市引退した水俣工場附属病院長の細川一訪問チッソ奉職してきた細川困らせる気は二人にはなかった。宇井言った。「私たち実験データ一方的に述べますから、細川先生黙ったままで結構です私たち間違っていたら『違う』とだけ言ってくださいませんか」。 二人自宅泊めた細川が「ネコ400号」の実験を口にしたのは翌朝だった。追試実験終わった時点より2年前に会社発病知っていたことが明かされた。 同年11月合成化学産業労働組合機関誌月刊合化』に富田八郎ペンネームで「水俣病」の連載を開始。この記事13回にわたった

※この「水俣病に出会うまで」の解説は、「宇井純」の解説の一部です。
「水俣病に出会うまで」を含む「宇井純」の記事については、「宇井純」の概要を参照ください。

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