武蔵野市の歴史
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(以下の文章は断りのない限り、全て「武蔵野史」(藤原音松著/武蔵野市役所版)より抜粋して記載している) 武蔵野市の市域は、石器時代既に一部集落が発達していた。奈良時代から鎌倉時代においても同様である。それは、井の頭池畔に散布する石器時代の遺物、遺跡や、吉祥寺八幡古墳の存在や、板碑の発見されることが証明している。徳川時代には、全域が開発されて幕府直轄地となり、関東郡代の治下に入り幕府の瓦解まで約300年間、江戸郊外の村落として発達を遂げた。 その開発は、玉川上水が家綱の時代、承応2年(西暦1652年)に竣工したことによる。これにより玉川沿線の開墾が促進された。無造作に発展した江戸は、火災に苛まされ、都市計画が実行され、道路拡張のため盛んに土地を上知[2]したのであった。そうしてその地に住んでいた町民に、替地を上水沿線にて割り与えて、移住開墾せしめたものであった。 武蔵野市民の祖先も同様で、明暦(1655年~1657年)~万治(1658年~1660年)年間にこの地に来て開墾に従い、武蔵野市発展の基礎を築いた。 天正18年(西暦1590年)の徳川家康の入国後、間もなくその外孫松平出羽守直政は御用屋敷を境に構えた。その他大小幾多の人士が、休養屋敷別荘を設けていたことは想像に難くないので、現に幕末文久3年5月(1863年5月)、關前村(以下、「関前村」という)差出の「手廣き住居書上帳」によれば、同村名主忠左衛門の屋敷には、幕府御使番火術方麹町永田町高貳千石松平備後守の隠居屋敷があり、又同村延命寺境内には松平能登守家中千葉平治兵衛が同様隠居屋敷を構えていた、前者は八畳二間六畳一間、後者は十二畳三間八畳一間の構えであった。 武蔵野市は徳川時代、徳川直領地であり、境村は府中領、その他は野方領と稱せられ、明治維新後、品川縣、神奈川縣、東京府に轉属し、北多摩郡管内に置かれ、明治二十二年市町村制施行と同時に、自治體(自治体)武蔵野市を形成し、昭和三年には町制が、同二十二年十一月には市制が施行された。
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