武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:52 UTC 版)
「苗木城」の記事における「武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻め」の解説
天文3年(1534年)、松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、小笠原貞忠が甲斐の武田氏のもとに逃れ小笠原氏が撤退。 天文11年(1542年)11月、遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進する。 天文21年(1552年)、岩村遠山氏の遠山直廉(遠山正廉)が苗木の遠山景徳の養子となり、手賀野(現在の岐阜県中津川市手賀野)に阿寺城を築いて入り、後に高森山砦を拡張し苗木城主となった。 天文年間(1532年~1555年)に遠山正廉が高森に苗木城を築く。 天文24年(1555年)、木曾氏が甲斐の武田氏に降る。 永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎(直廉同一人物説有り)が桶狭間の戦いに出陣する。 永禄8年(1565年)苗木勘太郎の娘(織田信長の養女)が武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ。 永禄12年(1569年)に、遠山直廉が武田氏からの指示により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し三木氏と大威徳寺の戦いを行い大威徳寺を焼き勝利したものの矢傷を負った。 永禄12年(1569年)6月遠山直廉、廣恵寺に禁制を下す。 永禄12年(1569年)6月18日雲岳宗興大禅定門(遠山正廉)死去(高野山過去帳)。 永禄13年(1570年)5月18日雲嶽宗高大禅定門(遠山直廉)死去(雲林寺過去帳)。。信長の命令で飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続する。 元亀元年(1570年)12月、上村合戦で遠山友勝(苗木勘太郎)、遠山景行、串原右馬介経景、小里内記などが武田家臣秋山虎繁と戦う。。 天正年間前半(1573年~1582年)、遠山友勝死去。 天正元年(1573年)8月、木曾義昌が河折籠屋(川上牢屋)を攻め落とし、苗木を攻める。 天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とす。 天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する。 天正10年(1582年)可児郡の兼山城主であった森長可が苗木を攻める。 天正11年(1583年)兼山城主の森長可再び苗木地方を攻め苗木城が落城。遠山友忠・遠山友政父子は徳川家康を頼り浜松に走る。
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