標題的意図を変化させる言葉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 14:25 UTC 版)
「合唱交響曲」の記事における「標題的意図を変化させる言葉」の解説
テクストを加えることは楽曲の標題的意図を効果的に変化させ得る。フランツ・リストの2つの合唱交響曲もそうである。『ファウスト交響曲』も『ダンテ交響曲』も純器楽作品として構想され、後から合唱交響曲となった。リスト研究の権威であるハンフリー・サールが後から合唱が入ったことで『ファウスト』は上手くまとめ上げられ完成をみたと断言する一方、別のリストの専門家リーヴス・シュルスタッド(Reeves Shulstad)は作品自体に異なる解釈がなされるように劇的な中心点を変更したのだろうと論じている。シュルスタッドによると「1854年のリストの初稿の終わりは、グレートヒェンを最後にさっと参照し、(中略)開始楽章の最も威厳ある主題群に基づき、ハ長調で管弦楽が締めくくっていた。この終結はファウスト並びに彼の想像力のペルソナの範疇に収まっていたといえるかもしれない。」リストが3年後に作品を再考した際、彼はゲーテの『ファウスト』の最後の文句から男声合唱が歌う『神秘の合唱』を追加した。テノール独唱が合唱を伴い、テクストの最後の2行を歌うのである。シュルスタッドは次のように記す。「『神秘の合唱』のテクストの追加により、グレートヒェンの主題は変容して、彼女はもはや仮面を付けたファウストには見えなくなる。こうして劇の最後の場面と直接の関わりが持たれることで、我々はファウストの想像の世界から逃れて、彼の抗いと救済について述べる異なる声を聞くことになる。」 同様に、リストがダンテ交響曲の最後にも合唱を加えたことにより、作品の構造と標題的意図が変質を遂げた。リストは作品を『神曲』の構造に沿わせ、交響曲を3楽章制として各々を「地獄篇」、「煉獄篇」、「天国篇」とするつもりだった。しかし、リストの娘婿にあたるリヒャルト・ワーグナーに、地上の作曲家には楽園の歓びを忠実に表現することはできないと説得される。これによりリストは第3楽章をやめにして、代わりに第2楽章の結尾部に合唱要素となる「マニフィカト」を付け加えた。サールが主張するには、この行動により作品の形式的均衡は効果的に破壊され、聴衆はダンテのように天国の高みに向かって天を見つめ、彼方からのその音楽を聴くことになるという。シュルスタッドが論じるには、最後の合唱により楽園へ至るためのもがきから解放されて、本作の物語の軌跡が完成することを助けているという。 反対に、テクストの存在が合唱交響曲の誕生への閃きとなり、標題的な焦点が変化したことで作品が純器楽的な楽曲として完成されることもある。ショスタコーヴィチは元々、交響曲第7番を自身の交響曲第2番や第3番のような単一楽章の合唱交響曲として計画していた。ショスタコーヴィチは詩篇第9篇をテクストに用い、罪なき血が流されたことに対する復讐を題材に採るつもりであったと伝えられる。これを行うにあたり彼はストラヴィンスキーから影響を受けており、深い感銘を受けた『詩篇交響曲』に匹敵する作品を作ろうとこの作品に取り組んだ。詩篇第9篇のテーマはスターリンの圧政に対するショスタコーヴィチの義憤を伝えるものではあったが、ドイツ軍の侵攻以前にはそのようなテクストを伴う楽曲の公開演奏を行うことは不可能な状態だった。ヒトラーによる侵略は、少なくとも理屈の上でそのような作品の発表を可能にした。「血」への言及を、公の意味としてであればヒトラーに関連付けることが出来たからである。スターリンがソビエトの愛国的、宗教的情緒に訴えかけていたため、権力者は正教会を主題に取ることや想起させることに対する抑圧をもはや行っていなかった。にもかかわらず、ショスタコーヴィチは自作がこの象徴性を大きく超えてしまうとやがて悟ることになる。そこで彼はこの交響曲を伝統的な4楽章制に拡大し、純器楽作品としたのであった。
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