楠瀬家
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(高知県高知市春野町) - 父の生家 高知県吾川郡春野町(現高知市)で「茶屋」という屋号をもつ楠瀬家は、土地やいくつもの蔵をもつ裕福な一族であった。 祖父・楠瀬豊吉は20世紀初頭に渡米し、シアトルの製材所で親方として働き、寄宿舎を建て、渡米してきた日本の若者たちを住まわせて職探しを手伝ったり、慈善事業のようなこともやっていた。豊吉は昭和6年(1931年)死去。幸の叔母多鶴(幸雄の妹)によると「高知県出身の私の父・楠瀬豊吉は20世紀初頭に渡米し、シアトルの製材所で親方として働き、日本人の母とのあいだに、兄の幸雄や私が生まれました。父は寄宿舎を建て、渡米してきた日本の若者たちを住まわせて職探しを手伝ったり、慈善事業のようなこともやってました。その父が亡くなったのは1931年(昭和6年)、私は13歳、4歳上の幸雄がアラスカにサーモン漁に出かけている時でした。高知にある遺産を相続するため、私たち家族は日本に戻ることになったのです」「兄は高知の工業高校を出た後、大阪の工業新聞で記者として働き始めました。戦争が始まると、私たちは、辛かったですね。毎月、家に憲兵隊がやってきて、『どちらが戦争に勝つか』と聞くのです。私は母親から『絶対にアメリカって言うんじゃありませんよ』と言われていました。それに、英語も禁止されたのです」 という。 豊吉が亡くなると、アメリカの市民権を持ったまま父幸雄は帰国。高知の工業高校を出た後、大阪の工業新聞で記者として働き始めた。西宮に住むようになった幸雄は、橋本秀子と出会い結婚した。秀子と幸雄は結婚後、上海に移り住んだ。 幸雄の妹多鶴によると「兄の幸雄は神戸で貿易会社を始めましたが、優しく親切な性格で、ガツガツした商売人には向いていなかった。戦後すぐにアメリカに戻った私も仕送りしましたが、結局、兄は貿易会社をたたみました。そして当時、私が住んでいたシカゴに単身でやってきたのです。シカゴでは工場勤務で2つのシフトを掛け持ちして働きづめでした。一時は、金属片で片腕に大けがを負ったこともありましたね」という。 シカゴで働く幸雄は、妻と二人の娘がアメリカに来るものだと思い、待ち続けたという。 再び一家四人で暮らせるように、家庭用の大きな鍋もキッチンに買いそろえた。しかしテーブルを家族がそろって囲むことは2度となかった。」という。 幸は父親について、「小学校2年生の時に、仕事先のアメリカで、ガンで亡くなったんです。会えないまま、訃報だけが届きました」 (「週刊女性」2007年3月13日号)と言ったり、別のインタビューでは、小学4年の時に他界したと答えている。しかし、事実はそうではなく、「父との別れ」の真相は両親の離婚であり、父が亡くなったのは幸が15歳の時だった。
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