楠瀬家とは? わかりやすく解説

楠瀬家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:51 UTC 版)

鳩山幸」の記事における「楠瀬家」の解説

高知県高知市春野町) - 父の生家 高知県吾川郡春野町現高知市)で「茶屋」という屋号をもつ楠瀬家は、土地いくつもをもつ裕福な一族であった祖父・楠瀬豊吉は20世紀初頭に渡米しシアトル製材所親方として働き寄宿舎を建て、渡米してきた日本若者たちを住まわせて職探し手伝ったり、慈善事業のようなこともやっていた。豊吉は昭和6年1931年死去。幸の叔母(幸雄の妹)によると「高知県出身私の父楠瀬豊吉は20世紀初頭に渡米しシアトル製材所親方として働き日本人の母とのあいだに、兄の幸雄や私が生まれました。父は寄宿舎を建て、渡米してきた日本若者たちを住まわせて職探し手伝ったり、慈善事業のようなこともやってました。その父が亡くなったのは1931年昭和6年)、私は13歳4歳上の幸雄がアラスカサーモン漁に出かけている時でした。高知にある遺産相続するため、私たち家族日本に戻ることになったのです」「兄は高知工業高校出た後、大阪工業新聞記者として働き始めました戦争が始まると、私たちは、辛かったですね。毎月、家に憲兵隊がやってきて、『どちらが戦争に勝つか』と聞くのです。私は母親から『絶対にアメリカって言うんじゃありませんよ』と言われいました。それに、英語も禁止されたのです」 という。 豊吉が亡くなると、アメリカ市民権持ったまま父幸雄は帰国高知工業高校出た後、大阪工業新聞記者として働き始めた西宮に住むようになった幸雄は、橋本秀子と出会い結婚した。秀子と幸雄は結婚後、上海移り住んだ。 幸雄の妹多によると「兄の幸雄は神戸貿易会社始めましたが、優しく親切な性格で、ガツガツした商売人には向いていなかった。戦後すぐにアメリカ戻った私も仕送りしましたが、結局、兄は貿易会社をたたみました。そして当時、私が住んでいたシカゴ単身でやってきたのです。シカゴでは工場勤務2つシフト掛け持ちして働きづめでした。一時は、金属片片腕大けが負ったこともありましたね」という。 シカゴで働く幸雄は、妻と二人の娘がアメリカに来るものだと思い待ち続けたという。 再び一家四人暮らせるように、家庭用大きな鍋もキッチンに買いそろえた。しかしテーブル家族そろって囲むことは2度となかった。」という。 幸は父親について、「小学校2年生時に仕事先アメリカでガン亡くなったんです。会えないまま、訃報だけが届きました」 (「週刊女性2007年3月13日号)と言ったり、別のインタビューでは、小学4年時に他界した答えている。しかし、事実はそうではなく、「父との別れ」の真相両親離婚であり、父が亡くなったのは幸が15歳の時だった。

※この「楠瀬家」の解説は、「鳩山幸」の解説の一部です。
「楠瀬家」を含む「鳩山幸」の記事については、「鳩山幸」の概要を参照ください。

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