楠木正成の死と大塚惟正の奮闘とは? わかりやすく解説

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楠木正成の死と大塚惟正の奮闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)

楠木正行」の記事における「楠木正成の死と大塚惟正の奮闘」の解説

父の楠木正成は、後醍醐天皇鎌倉幕府北条得宗家を打倒し元弘の乱1331年 - 1333年)では、後醍醐実子尊良親王尊雲法親王護良親王と共に開戦当初から参戦建武の新政においても最高政機関である記録所をはじめ、雑訴決断所恩賞方武者所等の主要機関所属、さらに摂河泉三国国司守護兼任(ただし和泉国守護のみ)するなど要職務め、また高師直共同で、西園寺公宗後醍醐暗殺計画未然防いだ2000年前後以降建武政権諸政策について再評価試みられており、そこに記録所寄人として関わった正成は官僚的な手腕にも長けていたのではないかという説もある。さらに、足利方との戦いである建武の乱でも総大将新田義貞に次ぐ有力武将として活躍。だが、延元元年/建武3年5月25日1336年7月4日)、湊川の戦い討死した。その後も続く連敗建武政権崩壊し後醍醐天皇尊氏降った延元元年/建武3年12月21日1337年1月23日)、後醍醐天皇京都から脱出して吉野南朝開き南北朝の内乱勃発北畠親房『神皇正統記』によれば吉野に入るとき、後醍醐は正成の一族召し従えていたという。 この頃は、楠木氏同族大塚出身で、南朝和泉守護代である大塚惟正(楠木惟正)が、楠木党と畿内での南朝軍を率い八木法達や岸和田治氏湊川の戦い生き残り率いて戦った。惟正は延元2年/建武4年1月1日、法達・治氏・平石源次郎らを指揮して和泉国侵攻し足利方の中川次郎兵衛入道父子領地入って父子戦ったこの後若松荘・和田菱木方面初め和泉国内でさらに数ヶ月戦い続けた。 ついに、3月10日には、幕府の有力武将である細川顕氏細川直俊出撃し、河内国古市郡大阪府羽曳野市)で戦い勃発両軍野中寺藤井寺西を舞台として交戦し、惟正は直俊を敗死させるなど大きな武功挙げた。 それからも惟正と顕氏は同年10月頃まで散発的に戦い続けた。惟正の親族と見られる大塚正連(おおつか まさつら)、通称新左衛門尉という武将活躍している(『和田文書』)。しかし、両軍戦い一進一退膠着状態にあり、やがて自然に沈静化した。惟正が楠木党の統率代行する戦いはここで終わる。しかし、翌延元3年/暦応元年1338年)ごろには、和泉守護代としての職責果たしている(『久米田寺文書『和田文書』)。のち、正行成長すると、惟正は楠木氏宗家当主である正行補佐し楠木党と係わりの深いの武将らに書状送って参集促すなどの働きをしている。

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