楠木氏の再興とは? わかりやすく解説

楠木氏の再興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:11 UTC 版)

楠木正忠」の記事における「楠木氏の再興」の解説

明応7年1498年)、伊勢楠木氏当主5代当主楠木正充(公的に川俣正充)と沢田景盛の娘の間に誕生(『全休系図』)。母方沢田家伊勢皇大神宮内宮)の神主荒木田氏嫡流家系である。 兄に正統(のち伊勢高岡(今の三重県鈴鹿市高岡町)に移り馬路宮内改名)、千子派/坂倉関派の刀工となった坂倉正利、姉に北勢四十八家千種氏の養女となった人物がいる(『全休系図』)。正利ともかくも長兄正統差し置いて嫡子になった理由不明。甥にあたる馬路正統近江国甲賀山村氏の祖となり、馬路正頼柴田勝家家臣山路正国仕えている(『全休系図』)。 忠盛(正忠)が産まれ当時楠木氏南朝味方した逆賊と見なされており、公的に川俣氏などの変名使用していた(『全休系図』)。事実、後に宗牧日記東国紀行』では、彼は楠木氏の人ではなく下浦兵部少輔」という偽名記されている。一方山科言継日記言継卿記』では、楠木氏勅免を得る以前日付から「兵部大輔」と記されており、彼が「朝敵楠木当主であることは公然の秘密だったようである。 この頃伊勢国北部北勢四十八家呼ばれる小勢力が群雄割拠しており、どう勢力伸ばすかが課題だった。忠盛(正忠)は伊勢国有数大勢力である関氏一族の関盛実の娘を正室迎え永正13年1516年)、長男の正具が産まれる(『全休系図』)。しかし、正妻早逝した(『全休系図』)。 大永7年2月23日1527年3月25日)、父の正充が死去(『全休系図』)。この時に家督継いだ考えられる当主となった後、関氏出身の妻が早逝したこともあったためか、関氏庇護離れて神戸氏とその背後にいる伊勢国北畠家接近し嫡子の正具と神戸氏当主神戸具盛北畠家出身)の娘を結婚させた(『全休系図』『勢州軍記』)。正具は後に伊勢国北畠家の重要拠点一つである大河内城転居した(『全休系図』)。四十八家一つ赤堀氏神戸氏縁戚関係結んだため、ここに北畠家神戸氏伊勢楠木氏赤堀氏大同盟が成立し伊勢国内の他の勢力対し有利な状況となった楠木氏久々に頭角表したためか、忠盛(正忠)は伊勢史書に名前や行動がしばしば現れるようになり、『勢志軍用記』にも「本郷村十郎」の名が見える(本郷村楠村異称)。

※この「楠木氏の再興」の解説は、「楠木正忠」の解説の一部です。
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