楠木氏の再興
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明応7年(1498年)、伊勢楠木氏当主第5代当主楠木正充(公的には川俣正充)と沢田景盛の娘の間に誕生(『全休庵楠系図』)。母方の沢田家は伊勢皇大神宮(内宮)の神主家荒木田氏の嫡流家系である。 兄に正統(のち伊勢高岡(今の三重県鈴鹿市高岡町)に移り馬路宮内に改名)、千子派/坂倉関派の刀工となった坂倉正利、姉に北勢四十八家千種氏の養女となった人物がいる(『全休庵楠系図』)。正利はともかくも、長兄の正統を差し置いて嫡子になった理由は不明。甥にあたる馬路正統は近江国甲賀山村氏の祖となり、馬路正頼は柴田勝家家臣山路正国に仕えている(『全休庵楠系図』)。 忠盛(正忠)が産まれた当時、楠木氏は南朝に味方した逆賊と見なされており、公的には川俣氏などの変名を使用していた(『全休庵楠系図』)。事実、後に宗牧の日記『東国紀行』では、彼は楠木氏の人ではなく「下浦兵部少輔」という偽名で記されている。一方、山科言継の日記『言継卿記』では、楠木氏が勅免を得る以前の日付から「楠兵部大輔」と記されており、彼が「朝敵」楠木の当主であることは公然の秘密だったようである。 この頃、伊勢国北部は北勢四十八家と呼ばれる小勢力が群雄割拠しており、どう勢力を伸ばすかが課題だった。忠盛(正忠)は伊勢国有数の大勢力である関氏の一族の関盛実の娘を正室に迎え、永正13年(1516年)、長男の正具が産まれる(『全休庵楠系図』)。しかし、正妻は早逝した(『全休庵楠系図』)。 大永7年2月23日(1527年3月25日)、父の正充が死去(『全休庵楠系図』)。この時に家督を継いだと考えられる。 当主となった後、関氏出身の妻が早逝したこともあったためか、関氏の庇護を離れて、神戸氏とその背後にいる伊勢国司北畠家に接近し、嫡子の正具と神戸氏当主神戸具盛(北畠家出身)の娘を結婚させた(『全休庵楠系図』『勢州軍記』)。正具は後に伊勢国司北畠家の重要拠点の一つである大河内城に転居した(『全休庵楠系図』)。四十八家の一つ赤堀氏も神戸氏と縁戚関係を結んだため、ここに北畠家 ・神戸氏 ・伊勢楠木氏・赤堀氏の大同盟が成立し、伊勢国内の他の勢力に対し有利な状況となった。 楠木氏で久々に頭角を表したためか、忠盛(正忠)は伊勢の史書に名前や行動がしばしば現れるようになり、『勢志軍用記』にも「本郷村楠十郎」の名が見える(本郷村は楠村の異称)。
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