楠木氏に復姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:11 UTC 版)
永禄2年(1559年)11月20日、高名な書家の大饗正虎が朝廷に楠木氏再興運動を働きかけた結果、朝廷から楠木氏への赦免状が発行され、晴れて正虎は「楠木正虎(楠正虎)」を名乗るようになった(『旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書』)。正忠もまた六角氏からこの事実を通達され、公的に楠木氏へ復姓した(『全休庵楠系図』)。なお、正忠は初名の忠盛をあるとき正忠に改名したとされ(『全休庵楠系図』)、その正確な時期は不明だが、この時点で楠木氏の通字の「正」を加えた可能性はある。 正忠と正虎は同じ楠木氏といっても、系図で分かれた時期は6代は遡るため、二人の直接関係は不明。ただ、正虎は伊勢楠木氏の拠点の一つである伊勢国神戸に居住していたことがあり、また正忠と同様、正虎も山科家と親しかった(楠木正虎の項を参照)。そのため、正忠も赦免について何か関与していた可能性は考えられなくもない。 六角氏から通達が届いたことについては、楠木氏と六角氏が友好関係にあったことは、一次史料である前述の山科言継の日記からも確かめることができる。また、天文18年(1549年)12月5日に六角義賢が村田左近大夫信重という人物に宛てた書翰があり(『全休庵村田系図』所収)、村田氏と伊勢楠木氏は縁戚関係であるから、この辺りからも六角氏との結びつきが証される。
※この「楠木氏に復姓」の解説は、「楠木正忠」の解説の一部です。
「楠木氏に復姓」を含む「楠木正忠」の記事については、「楠木正忠」の概要を参照ください。
- 楠木氏に復姓のページへのリンク