棋正社時代までとは? わかりやすく解説

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棋正社時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 06:20 UTC 版)

雁金準一」の記事における「棋正社時代まで」の解説

1915年に、1907年発足した関西囲碁研究会関西囲棋会)会員になる。1917年には、雁金井上家跡目とすることが一門決議されるが、1920年恵下田栄芳正式に16井上因碩襲名する1919年時事新報主催徳蔵三段戦を行い(先二、二子番、雁金中押勝)、13年振り対局となる。また方円社に再入社し小林健太郎と向二子で十番碁。同年関源吉吉沢道三、小林太郎らと、大正囲棋会を設立喜多文子と十番碁(向先-向先二)。その後政財界有力者の間で雁金打たせようという相談まとまり1920年3月細川護立催しで、1914年名人位していた秀哉と対戦13打掛け翌年1月30日終局雁金(先)6目勝。同年4月にも久保松勝喜代五段昇段披露会席上で秀哉と対戦し33手で打掛け同年5月時事新報主催で秀哉戦、打掛け19回で12月28日終局、秀哉(白)中押勝。 方円社理事となるが1922年脱退し高部道平鈴木為次郎瀬越憲作の4棋士裨聖会設立裨聖会は、総互先コミ出し持ち時間制などを初め導入したこの中で雁金が8勝3敗1ジゴで最も成績優秀、次いで瀬越であった高部道平らの活動による1924年の碁界大合同日本棋院創立委員として参加するが、同年雁金鈴木為次郎高部道平加藤信小野田千代太郎が、報知新聞日本棋院規約反して個人契約して除名。この5棋士にて棋正社設立翌年七段に昇段鈴木加藤1926年棋正社離脱1926年読売新聞通じ棋正社日本棋院の間で院社対抗戦正式名称日本棋院棋正社敗退手合)を開始大正大争碁とも呼ばれる初戦に秀哉ー雁金(先)戦が行われ、254手までで雁金時間切れ負けとなる。以後勝ち抜き戦で、棋正社常勝将軍呼ばれた野沢竹朝加えるが、1929年終了時には棋正社1426敗2持碁となった雁金は4勝9敗)。この院社対抗戦掲載した読売新聞は社を挙げて宣伝し観戦記には村松梢風文士配し、また秀哉ー雁金戦が序盤から大乱戦となったことも手伝い発行部数を3倍に伸ばした

※この「棋正社時代まで」の解説は、「雁金準一」の解説の一部です。
「棋正社時代まで」を含む「雁金準一」の記事については、「雁金準一」の概要を参照ください。

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