棋正社時代まで
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1915年に、1907年に発足した関西囲碁研究会(関西囲棋会)会員になる。1917年には、雁金を井上家跡目とすることが一門で決議されるが、1920年に恵下田栄芳が正式に16世井上因碩を襲名する。 1919年に時事新報主催の林徳蔵三段戦を行い(先二、二子番、雁金中押勝)、13年振りの対局となる。また方円社に再入社し、小林健太郎と向二子で十番碁。同年、関源吉、吉沢道三、小林鍵太郎らと、大正囲棋会を設立。喜多文子と十番碁(向先-向先二)。その後政財界有力者の間で雁金に打たせようという相談がまとまり、1920年3月、細川護立の催しで、1914年に名人就位していた秀哉と対戦、13回打掛けで翌年1月30日終局、雁金(先)6目勝。同年4月にも久保松勝喜代五段昇段披露会席上で秀哉と対戦し、33手で打掛け。同年5月時事新報主催で秀哉戦、打掛け19回で12月28日終局、秀哉(白)中押勝。 方円社理事となるが1922年に脱退し、高部道平、鈴木為次郎、瀬越憲作の4棋士で裨聖会設立。裨聖会は、総互先コミ出し、持ち時間制などを初めて導入した。この中では雁金が8勝3敗1ジゴで最も成績優秀、次いで瀬越であった。 高部道平らの活動による1924年の碁界大合同で日本棋院に創立委員として参加するが、同年、雁金、鈴木為次郎、高部道平、加藤信、小野田千代太郎が、報知新聞と日本棋院規約に反して個人契約して除名。この5棋士にて棋正社を設立。翌年七段に昇段。鈴木、加藤は1926年に棋正社を離脱。 1926年に読売新聞を通じ、棋正社と日本棋院の間で院社対抗戦(正式名称は日本棋院対棋正社敗退手合)を開始、大正大争碁とも呼ばれる。初戦に秀哉ー雁金(先)戦が行われ、254手までで雁金の時間切れ負けとなる。以後の勝ち抜き戦で、棋正社は常勝将軍と呼ばれた野沢竹朝も加えるが、1929年終了時には棋正社の14勝26敗2持碁となった(雁金は4勝9敗)。この院社対抗戦を掲載した読売新聞は社を挙げて宣伝し、観戦記には村松梢風ら文士を配し、また秀哉ー雁金戦が序盤から大乱戦となったことも手伝い、発行部数を3倍に伸ばした。
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