棋正社の挑戦
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棋正社の5棋士は当時のスター棋士であり、かつての稗聖会と同様にすべて互先による対局という方式により対局を行ったが、木谷実ら若手の成長により層の厚くなっていた日本棋院にも勢いがあった。1925年5月には雁金の七段昇段を発表。翌年1月には鈴木の七段昇段を発表するが、鈴木は3月に棋正社を離脱して日本棋院に復帰。次いで加藤も8月に離脱した。 棋正社は読売新聞を通じて8月20日、日本棋院に対して対抗戦の呼びかけを公開した。日本棋院副総裁大倉喜七郎は当初これを拒絶したが、読売新聞社長正力松太郎の本因坊秀哉らへの交渉により、日本棋院は受けて立つこととなり、「日本棋院対棋正社敗退手合」通称院社対抗戦が行われることとなった。方式は双方の棋士が交替で出場する勝ち抜き戦形式で、初戦は本因坊秀哉と雁金準一(先番)戦で1926年(大正15年)9月27日に開始された。
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