査読の限界の事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:43 UTC 版)
査読はベル研のヘンドリック・シェーンの科学における不正行為に満ちた論文を全て通過させ、科学誌に掲載させてしまった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2000年前後にかけて、米国のベル研究所を舞台に大掛かりな不正行為が行われた。ドイツ人の若手研究者であったヘンドリック・シェーンによる有機物超伝導体に関する論文は、通常の査読を経て、最高ランクの雑誌であるネイチャーやサイエンスに合計16本が掲載された。しかし、論文の結果が他のグループではまったく再現できないことなどから疑惑がもちあがり、最終的には実験結果のグラフの捏造が判明して全ての論文が撤回された。[要出典] サイエンス誌が査読を経て2004年および2005年に相次いで掲載した、黄禹錫(ファン・ウソク)ソウル大学教授のヒトES細胞に関する論文は、後にまったくの捏造であったことが判明した。この不正は査読によってではなく、ファンの研究チームの元研究員による内部告発および電子掲示板での若手生物学者たちによる検証により発覚した。[要出典] イラクからヨルダンを経てアメリカに留学していた医師エリアス・アルサブティ (Elias Alsabti) は、テンプル大学やジェファーソン医科大学・ボストン大学などを転々とする中で、無名の学術雑誌に掲載されていた論文をそっくりそのまま盗用して他の無名の学術雑誌に投稿するという手段を繰り返した。こうして投稿した論文のうち60数編が実際に掲載され、そのことはアルサブティの業績に箔をつけることになった。結果としてアルサブティの技量の拙さを不審に感じた同僚によって真相が暴かれて、アルサブティは医師免許を剥奪された。[要出典] 東邦大学に在籍していた藤井善隆は1991年から2011年にかけて無名の学術雑誌に多くの論文を発表し、そのことによって講師から准教授へと順調に出世したものの、2000年から論文で使われたデータの不自然さが指摘され、2012年に日本麻酔科学会の調査特別委員会によって藤井が発表した論文212本のうち172本にデータ捏造の不正があったとする調査結果を発表。藤井は東邦大を辞職し、日本麻酔科学会からも退会した。 ジェネーブ大学のカール・イルメンゼー(ドイツ語版)とアメリカ・ジャクソン研究所のピーター・ホッペが、1977年にハツカネズミの体細胞から細胞核の移植によってクローン生物を生成することができるとした論文は、生命科学の学術雑誌として名高いセル誌に掲載された。しかし、他の実験者による再現実験では成功せず、さらに内部告発からイルメンゼーがデータを故意に操作していたとの指摘があったことから、1981年にジェネーブ大学が、イルメンゼーの一連の研究は「捏造とは断定できないものの信頼性に重大な疑問が残る」という調査結果を発表。イルメンゼーは、その後大学の職を辞することとなった。 フランスで通俗科学番組の司会者をしていたイゴール・ボグダノフとグリシュカ・ボグダノフ兄弟は、1991年から2002年にかけてビッグバン宇宙論に関する論文を専門学術誌に掲載した(その中には査読制度のある専門誌もあった)。しかしボグダノフ兄弟は物理学の専門的な教育を経たわけではなく(修士課程まで応用数学専攻)、物理学者の多くが兄弟の論文の内容のでたらめぶりを批判した。結局、兄弟はすべては査読制度の弱点を暴くための悪戯だったと白状するに至った[要検証 – ノート](ボグダノフ事件)。
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