柏崎市政
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1951年(昭和26年)、洲崎義郎市長のもと柏崎市衛生課長として採用される。洲崎は当時革新系に近い立場をとっていたが、もともと比角村の名望家の出身で村長を務め、スポーツ振興に熱心な人物であることから今井との関わりがあった。洲崎は採用した今井に対して、衛生のことは課長補佐に任せてスポーツの世話をしていればよい、と述べたという。1959年(昭和34年)の洲崎退任時には今井は総務課長になっている。その後、1962年(昭和37年)に小林治助が市長に就任すると、今井は総務課長から助役となった。小林は保守系であるが、今井と小林は中学時代の同級生であった。小林は原子力発電所(のちに柏崎刈羽原子力発電所として実現)の誘致・建設を推進したが、これに対する反対運動も激化した。1978年(昭和53年)、4期16年にわたって市長を務めた小林は健康問題から次期選挙への不出馬を表明、小林を支えていた助役の今井が後継候補となった。 1979年(昭和54年)、柏崎市長選挙では小林市政の継承を訴えて当選。以後市長を2期8年務めた。今井自身が「今井市政」と言われることを嫌ったといい、小林市政を踏襲して原子力発電所の建設を推進し、電源立地財源を活用しての公共事業を行った。スポーツ施設の建設にも積極的であり、佐藤池運動広場(柏崎市佐藤池野球場などを含む)などが建設された。 また、1978年(昭和53年)6月に発生した鵜川の水害(6・26水害)を受けての鵜川河川激甚災害対策特別緊急整備事業(激特事業)による水害対策(蛇行していた鵜川の直線化など)を進めた。このほか、市政のもとで行われた事業としては、田尻工業団地・総合福祉センター・柏崎市立博物館の建設、大学の誘致(もともと柏崎にあった新潟短期大学が新潟産業大学として拡充建設されることになる)、国道8号バイパス(柏崎バイパス)の事業化などがある。 1984年(昭和59年)、電源立地促進功労者内閣総理大臣表彰受賞。1985年(昭和60年)、今井は次期選挙への不出馬を表明、1987年(昭和62年)4月に退任した。次期市長選は保守系2候補の争いとなり、いずれの陣営も「今井市政」の継承を掲げた(飯塚正が当選)。 1987年(昭和62年)12月27日死去。
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