柏崎県側
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 22:57 UTC 版)
元八王寺村(現燕市)農民の無宿者、川崎九郎次らは、1872年(明治5年)3月頃より流域に分水工事反対の決起を呼び掛ける落し文を行っていた。(後の調書によれば、彼は新政府転覆を企てる元米沢藩士、木下三左衛門の指示を受けたとあるが、この人物については不明である。)4月3日夜、早鐘を合図に現在の巻潟東IC付近に千数百名の一揆勢が集結し、道々周辺の農民を糾合しながら柏崎県庁(現柏崎市)へ強訴に向かった。一説には、最盛時には9千名にも達したとされるが、途中逃げ帰るものも多く、5日午後に柏崎に到着した時には4~6千名ほどであったとされる。一揆勢は県庁側役人に次のような嘆願書を提出した。 分水工事の負担の免除。 氏子・檀家の負担となる社寺の免税。 年貢を旧幕府時代の水準への据置き。 外国との交易差止め。 更に口頭で、 分水工事は官費で行い、労賃を滞りなく支払うこと。 船などでの廻米による年貢を止め、地元で納付するよう改めること。 村役人を公選制とすること。 県側は急遽浪人らを集め、見廻隊を結成して対応に当たったが、衝突には至らなかった。翌6日夜、県側は一揆首謀者の宿舎を急襲し、彼等を捕縛した。川崎九郎次1名のみが首謀者として罪を引受け、他の者は釈放された。
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