松聲堂の設立とは? わかりやすく解説

松聲堂の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 13:43 UTC 版)

松聲堂」の記事における「松聲堂の設立」の解説

天保6年1835年2月巨摩郡西野村長百姓幸蔵と佐次兵衛、同郡西花輪中央市西花輪)の長百姓内藤清右衛門(景助)を中心とする有志により郷校設立発起される。西野村幸蔵は「油屋」の屋号持ち商業携わった人物で、天保年間には清右衛門とともに伊予国西条藩産の塩の移入計画している。 内藤清右衛門は『甲斐国志編さん携わった内藤清右衛門(禹昌、正輔、1751年 - 1831年の子で、父の清右衛門は「藤屋西」の屋号持ち商業携わる一方で花輪村時習館創設した。子の清右衛門父とともに甲斐国志編さん携わり、後に清右衛門襲名し時習館経営携わった天保6年2月市川代官所提出した願書では郷校設立社会的意義訴え幸蔵身元確かな人物であることを村役人村人保証し手習所設置求め幸蔵意見賛同する添書出した。さらに請書では手習所建設維持関わる諸経費は各有志による募金集め建設予定地小物成米は西野村弁済することを明記した設立資金幸蔵清右衛門が金20両、巨摩郡荊沢南アルプス市荊沢)の豪農市川市右衛門が金10両を出資し、他の出資者あわせて総額は140両と米4俵に及んだ。さらに西野村では13箇条連印状を作成し西野村曹洞宗寺院宝珠院を仮校舎として開校された。天保7年1839年4月には校舎完成し正式に開設するこの頃には就学者増加し学校名西野手習所から「松聲堂」と改める。 初代教授松井渙斎(まつい かんさい、1806年 - 1854年)。渙斎は江戸出身幕臣儒学者で、甲府近郊高室村甲府市高室町)に居住し西花輪私塾時習館教えた経歴を持つ。松井徽典館学頭ほか、甲斐国内の多く文人交流している。現在の南アルプス市白根東小学校には渙斎の肖像所蔵されている。嘉永元年1848年)に高齢により引退し江戸へ戻る。後任宮浦東谷務めた宮浦東谷武蔵国葛飾郡早生田村東京都出身旧姓は「雨宮」、通称は庄左衛門、諱は義房、旧伊予国大洲藩士。市川代官小林之助の食客として市川大門村滞在しており、明治4年1871年)に死去宮浦後任学制発布まで徽典館根岸好太郎が務めた嘉永元年1848年)から元治元年1864年)までの16年間の門人記した門人帳には、門人氏名出身地父母・兄弟の名が記されている。門人200人を越えたという。女性門人存在した授業漢学中心で、水準寺子屋近かったという。 著名な門人漢詩人青嶋貞賢小野泉、竹内源蔵斎藤文治村松栄斎などがいる。 松聲堂の設立願書門人帳などの関連史料は『山梨県史』の編纂において発見された。個人所蔵。『山梨県史 資料13近世6上』において一部翻刻されている。

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