松聲堂の設立
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天保6年(1835年)2月に巨摩郡西野村の長百姓・幸蔵と佐次兵衛、同郡西花輪村(中央市西花輪)の長百姓・内藤清右衛門(景助)を中心とする有志により郷校設立が発起される。西野村幸蔵は「油屋」の屋号を持ち商業に携わった人物で、天保年間には清右衛門とともに伊予国西条藩産の塩の移入を計画している。 内藤清右衛門は『甲斐国志』編さんに携わった内藤清右衛門(禹昌、正輔、1751年 - 1831年)の子で、父の清右衛門は「藤屋西」の屋号を持ち商業に携わる一方で、花輪村に時習館を創設した。子の清右衛門も父とともに『甲斐国志』編さんに携わり、後に清右衛門を襲名して時習館の経営に携わった。 天保6年2月に市川代官所に提出した願書では郷校設立の社会的意義を訴え、幸蔵が身元確かな人物であることを村役人や村人が保証し、手習所設置を求める幸蔵の意見に賛同する添書を出した。さらに請書では手習所の建設・維持に関わる諸経費は各村の有志による募金で集め、建設予定地の小物成米は西野村が弁済することを明記した。 設立資金は幸蔵と清右衛門が金20両、巨摩郡荊沢村(南アルプス市荊沢)の豪農・市川市右衛門が金10両を出資し、他の出資者とあわせて総額は140両と米4俵に及んだ。さらに西野村では13箇条の連印状を作成し、西野村の曹洞宗寺院・宝珠院を仮校舎として開校された。天保7年(1839年)4月には校舎が完成し、正式に開設する。この頃には就学者も増加し、学校名を西野手習所から「松聲堂」と改める。 初代教授は松井渙斎(まつい かんさい、1806年 - 1854年)。渙斎は江戸出身の幕臣・儒学者で、甲府近郊の高室村(甲府市高室町)に居住し、西花輪村の私塾・時習館で教えた経歴を持つ。松井は徽典館学頭ほか、甲斐国内の多くの文人と交流している。現在の南アルプス市立白根東小学校には渙斎の肖像が所蔵されている。嘉永元年(1848年)に高齢により引退し、江戸へ戻る。後任は宮浦東谷が務めた。 宮浦東谷は武蔵国葛飾郡早生田村(東京都)出身。旧姓は「雨宮」、通称は庄左衛門、諱は義房、旧伊予国大洲藩士。市川代官・小林藤之助の食客として市川大門村に滞在しており、明治4年(1871年)に死去。宮浦の後任は学制発布まで徽典館の根岸好太郎が務めた。 嘉永元年(1848年)から元治元年(1864年)までの16年間の門人を記した門人帳には、門人の氏名、出身地、父母・兄弟の名が記されている。門人は200人を越えたという。女性の門人も存在した。 授業は漢学中心で、水準は寺子屋に近かったという。 著名な門人に漢詩人の青嶋貞賢、小野泉、竹内源蔵、斎藤文治、村松栄斎などがいる。 松聲堂の設立願書、門人帳などの関連史料は『山梨県史』の編纂において発見された。個人所蔵。『山梨県史 資料編13近世6上』において一部翻刻されている。
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