東華学校の開校
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「ウィリアム・エドウィン・ホーイ」の記事における「東華学校の開校」の解説
ここに、学校の教育と 経営の分離が行われ、「半官半民」・「事実上の公設民営」の学校がスタートする。 男子学校設立をめぐる、新島と押川の交渉過程において、新島が押しの強い押川に押され設立を 逡巡したとき富田は、新島に男子学校設立を強く求めたのである。具体的に言えば、富田を中心とする仙台の有力者が学校を設立し、(新島襄が設立者からはずれ)校長として新島を招く方針に切り替え、新島の同意を得たのである。富田等を設置者とすることで、新島と押川の軋轢を回避し、新島の杞憂を取り除き、学校を設置する方針をとったのである。 明治20年より21年と東華学校は順調な成長段階を踏んでいった。しかし、日本国内の世情は、キリスト教主義学校の維持発展には障害となる風潮が兆していた。 1891(明治24)年には、第二高等中学校(旧制第二高等学校の前身)の「補充科」の廃止問題が起こった。すなわち、文部省の管理のもとにあり、 全国で5校の設置が予定された高等中学校を「高等教育機関(高等学校)」へ移行するにあたり、「補充科」での「中等教育」を廃止するという問題である。 これまで、宮城県では、財政問題を回避するために、尋常中学校を廃止し、第二高等中学校の「補充科」 に公的な男子中等教育を委ね、東華学校を支援してきたのであった。明治24年12月の宮城県議会では、 尋常中学校再興派と東華学校存続派が対立したが、 明治25年から尋常中学校を再興すること議決し、東華学校の廃止が決まったのである。『デフォレスト館建造物調査報告書』では、尋常中学校が兵役免除の恩典が受けられる学校の創設を決議したとしている。確かに、私立学校にとっては、徴兵猶予と上級学校入学の資格認定は、教育の質と生徒数の確保に関わる経営上の死活問題であった。後日 になるが、東北学院でも、多数の成績優秀な生徒が 官立学校に転学することに起因する問題が浮上し、 1901(明治34)年5月に文部大臣あてに徴兵猶予認定願を出す。何度かの折衝を経て、明治35年1月に、 普通科(後に中学部と改称)が徴兵猶予の資格認定 が出る(明治36年6月、専門学校入学資格の認定)。そして、東華学校の廃止が決まると、教員が総辞職する事態になるが、生徒を宮城県尋常中学校で受け入れることで問題の解決が図られ、日本人教員の 多くも尋常中学校に異動する。また、栗原基等15名 ほどは、東北学院に編入する。こうして、1892(明 治25)年3月24日、東華学校は、5年半の短い教育の 役割を終え、閉校となる。 他方、デフォレストによれば、「新島先生の逝去、 条約改正に関し外国人を嫌悪する反動力、東華学校 は宗教学校との世評」から、「聖書」の削除が求められ、さらに「尋常中学を当地に再興の議」が出始 めたのである(太田(2007)、p.225)。デフォレスト ら外国人教師(宣教師)にとっては、「聖書」の削除を日本人教師とともに「校事」として決定するこ とはできず、東華学校の隆盛のためには「総辞職が 必要不可欠であった」のである。 宮城県議会での主たる論点は、第二高等中学校の 「補充科」の廃止にともなって、宮城県の「公的機関」による中等教育に「空白」が生じると見るか、 これまで通りに財政負担が軽い「半官半民」の東華学校を支援しこれを機能させるか、という問題であった。 1888年(明治22年2月11日)「帝国憲法』」の発布、続いて「教育勅語」発布 同12月県議会で県立尋常中学校再興を決議し、東華学校の廃止を決定した。この決定をみて、今度は東華学校の教員が一斉に総辞職することになった。 同3月24日
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