東華学校閉校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 06:57 UTC 版)
「ウィリアム・エドウィン・ホーイ」の記事における「東華学校閉校」の解説
日本国内の世論は反欧化主義となり、教育勅語の発布により一挙に国粋主義、排外主義、反キリスト教主義への途を辿っていった。東華学校は、この逆風の中で明治22年8月の副校長市原盛宏のアメリカ留学、続いて精神的支柱であった明治23年1月の新島襄の急逝でさらに追い打ちをかけられた。 東華学校閉校の要因は種々挙げられるが、まず非クリスチャンの東華議会商議員たちが聖書科削除をすれば反キリスト教感情が薄まると考えたこと、一方外国人宣教師たちは、自分達教員である限り、学校への敵意はとり除けないと考えて総辞職したこと。なんといっても最大の要因は、徴兵令第13条認定による兵役免除の特典をもつ、宮城県立尋常中学校の設置である。これにより財政的にも存続不可能となり、開校以来5年半という短い期間を以って、東華学校は明治25年3月24日閉校となったのである。当初、押川は、宮城英学校 (東華学校)とは別の男子学校の設立を模索し、これが困難になると新島と「一致」して設立をめざしたが、最終的には、「一致」は困難であり、「弊害」 さえも出かねないとして、この男子学校の設立には 加わらなかったが、「事実上の公設民営」の弱点が露呈し、押川の危惧が顕在化したのであった。
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