村井八郎_(内務官僚)とは? わかりやすく解説

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村井八郎 (内務官僚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/30 01:49 UTC 版)

村井 八郎
村井八郎の肖像写真
生年月日 1886年12月24日
出生地 福島県岩瀬郡須賀川町
(現須賀川市
没年月日 (1970-10-11) 1970年10月11日(83歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科
前職 内務官僚
所属政党 日本進歩党
日本自由党
衆議院議員(1期)
在任期間 1946年4月 - 1947年4月(公職追放
内閣 犬養毅内閣
在任期間 1931年12月18日 - 1932年6月28日
在任期間 1937年7月4日 - 1940年5月10日
在任期間 1940年5月13日 - 1944年5月12日
在任期間 1952年3月28日 - 1956年3月27日
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村井 八郎(むらい はちろう、1886年明治19年)12月24日[1] - 1970年昭和45年)10月11日[1])は、日本の内務官僚政治家実業家衆議院議員福島県知事郡山市長川崎市長会津若松市長を歴任した。旧姓・阿部。

経歴

福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。阿部又吉の五男として生まれ、村井半之助の養子となる。会津中学第一高等学校を経て、1912年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福島県属兼警部となる。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。

以後、新潟県東蒲原郡長、同三島郡長、同理事官長野県警察部長、大分県警察部長、熊本県書記官・警察部長、山形県書記官・内務部長、大阪府書記官・警察部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。1931年12月、福島県知事に就任し、1932年6月28日、知事を休職となる[2]。その後、郡山市長を経て、太平洋戦争時の川崎市長を務めた。

1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で福島県選挙区に日本進歩党から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。衆議院請願委員長や戦災復興院政務官を務めている。その後、公職追放となる[3]

その他、日本自由党政調会副会長、東京トヨタ自動車販売監査役、福島トヨペット取締役会長、川崎市商業活動調整協議会長などを歴任。

1952年から1期務めた若松市長時代には、若松市と7村との合併を実現して会津若松市を発足させ、裏磐梯の観光開発などを進めた。1970年10月11日死去。享年83。

脚注

  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、58頁。
  2. ^ 『官報』第1648号、昭和7年6月29日。
  3. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛川崎市武徳会支所長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、381頁。NDLJP:1276156 

参考文献

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』(第1巻)歴代知事編纂会、1983年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。



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