倉元要一とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 倉元要一の意味・解説 

倉元要一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/14 03:39 UTC 版)

倉元 要一
くらもと よういち
 倉元要一
生年月日 (1879-12-17) 1879年12月17日
出生地 福岡県宗像郡上西郷村
(現・福岡県福津市
没年月日 (1942-11-12) 1942年11月12日(62歳没)
出身校 明治大学法科専門部
所属政党 立憲政友会
立憲政友会革新同盟
興亜議員同盟
テンプレートを表示

倉元 要一(くらもと よういち、1879年明治12年)12月17日[1] - 1942年昭和17年)11月12日)は、日本政治家立憲政友会所属の衆議院議員

経歴

福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。

1924年大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。

1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では、非推薦候補として出馬したが落選した[2]。墓所は多磨霊園

脚注

  1. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年(大正15年)、16頁。
  2. ^ 『翼賛選挙大観』朝日新聞社、1942年(昭和17年)。

参考文献





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「倉元要一」の関連用語

倉元要一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



倉元要一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの倉元要一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS