李矩に投じる
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建興2年(314年)、劉曜は懐城へ侵攻すると、陣営を三重に連ねて包囲し、兵糧攻めを図った。郭黙は食糧が尽きると妻子を人質に送って投降する旨を伝え、食糧を求めた。劉曜はこれに応じて郭黙に食糧を提供すると、郭黙は約束を反故にして再び城門を閉じ、城を守った。怒った劉曜は郭黙の妻子を黄河に沈めると、攻撃を再開した。郭黙は弟の郭芝を劉琨のもとに派遣して救援を要請したが、劉琨は郭黙が狡猾であった事からこれを警戒し、郭芝を留めて救援を遅らせた。その為、郭黙はさらに使者を派遣して危急を告げさせると、その使者は郭芝が城外で馬に入浴させている所に遭遇し、劉琨に救援する意志がない事を悟ると郭芝を強引に連れて帰還した。次いで郭黙は郭芝を石勒のもとに人質として派遣して救援を請うたが、石勒もまた郭黙は偽りの多い人物とみなしていたので、郭黙の親書を開かずに劉曜に送った。郭黙は人を派遣し、石勒が劉曜に親書を送った事を知った。進退窮まった郭黙は城から出撃して包囲を突破し、新鄭にいた滎陽郡太守の李矩に帰順を請うた。李矩はこれに応じ、外甥である郭誦を派遣して迎え入れさせたが、郭黙は漢軍の攻撃を恐れて合流出来なかった。李矩は劉琨の参軍張肇と共に鮮卑五百騎余りを率いて城外の漢軍を撤退させ、郭誦は密かに懐城を夜襲して漢軍を大破した。こうして、郭黙はその配下を引き連れて李矩に帰順した。 建興5年(317年)2月、漢の将軍劉暢が歩騎3万を率いて李矩を攻めると、郭黙は郭芝に兵を与えて救援させた。郭芝が至った時には既に李矩は劉暢を破っていたが、郭芝はその日の夜に軍を分けて三方より劉暢軍を追撃し、大勝を挙げてから帰還した。 12月、趙固と共に漢領である河東へ侵攻した。絳県まで到達すると、右司隷の民3万人余りが牧馬を盗んで妻子を引き連れ、亡命してきた。だが、漢の騎兵将軍劉勲がこれを追撃して1万人余りを殺害すると、郭黙らは兵を退いて帰還した。漢の将軍劉頡はこれを追撃したが、返り討ちにした。 大興元年(318年)3月、漢の皇太子劉粲・将軍劉雅が歩騎10万を率いて洛陽を守る趙固を討つと、趙固は陽城山に逃亡して李矩に救援を要請した。李矩の命により、郭黙は郭誦と共に救援に向かい、洛口に駐屯した。配下の将軍張皮・耿稚は精鋭千人をもって劉粲を奇襲し、兵の大半を殺傷して陣営を奪い取り、数え切れぬ程の軍需物資を鹵獲した。夜が明けると劉粲の反攻を受けたが、耿稚らは20日余りに渡ってこれを阻み、機を図って包囲を突破した。 同年、東晋の元帝(司馬睿)により潁川郡太守に任じられた。 大興3年(320年)2月、前趙の弘農郡太守尹安・振威将軍宋始を始めとした四軍は洛陽を占拠していたが、彼らは互いに不和を生じていたので、郭黙は李矩と共に各々千騎を洛陽へ侵入させ、これを鎮守させた。だが、尹安らが後趙に降伏の使者を送ると、将軍石生が騎兵五千を率いて洛陽へと到来したので、郭黙らの兵は撤退した。その後、尹安らは後趙からも背いて李矩に使者を派遣して救援を乞うと、李矩の命により郭黙はまた歩兵五百を派遣して洛陽へ入らせた。石生は宋始を攻撃してその将兵を捕らえると、黄河を渡って北へ引き上げた。郭黙もまた洛陽から撤退すると、河南の人々はみなこれに付き従ったので、洛陽は空になった。 6月、郭黙を始めとした東晋の諸将は互いに対立しあっていたが、豫州刺史祖逖は使者を送って彼らの融和を図った。これにより、郭黙らは祖逖の指揮を仰ぐようになった。 太寧2年(324年)1月、後趙の汲郡内史石聡が到来すると、郭黙は李矩と共にこれを迎え撃つも敗れた。 郭黙が祖逖の後を継いだ豫州刺史祖約を攻撃しようとすると、李矩はこれを止めようとしたが、郭黙は従わずに出兵し、祖約に敗れた。 石聡が郭黙を攻めると、郭黙は幾度も後趙から攻撃を受けていたので疲弊し、前趙に降ろうと考えた。その為、参軍鄭雄を派遣してこの事を李矩に持ち掛けたが、李矩は許さなかった。
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