安倍晴明物語とは? わかりやすく解説

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安倍晴明物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/12 08:04 UTC 版)

安倍晴明物語』(あべのせいめいものがたり)は、寛文2年(西暦1662年)刊行の仮名草子。別称として『晴明物語』(せいめいものがたり)、『安倍晴明記』(あべのせいめいき)が用いられることもある。作者は浅井了意(詳細は「#作者」参照)。7巻6冊構成。


注釈

  1. ^ 和田恭幸は「『安倍晴明物語』の世界」[3]の注記で「同書(『新修浅井了意』[4]のこと)に作者を浅井了意と認定する根拠も付記される」とあるが、これは正しくない。改訂2版にあたる『新修浅井了意』でも、北条は『安倍晴明物語』の「作者を浅井了意と認定」していないし、「根拠も付記」していない。
  2. ^ 北条は以前「浅井了意著書考」[5]の中で、「仏書以外の了意の著作には署名あるものが極めて少ない。従って、今日了意の作と云われて居る多くの作品は、主として当時の書籍目録の作者付を原拠として摘出され、次第して諸種の随筆、文学史、論文等に所載のものを数えるより仕方がない。書目は、主として書肆の都合に依って編纂せられ、文字の誤り、重複等もあって絶対の信用は置けないが、兎に角、日常取扱う書籍を書肆自身が編纂したものである以上、その記述に甚しい誤りはあるまい。まして書目編纂当時に生存中の作家に就ての誤りは一層少ないと見ねばならぬ。」(旧字体は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに変更)と述べている。
  3. ^ 阿羅漢果のこと。仏教修行者の到達しうる最高位。
  4. ^ 「吉備入唐間事」と本作では細部(試練の数、順番、解決法など)が異なる。さらに「吉備入唐間事」は囲碁、文選、野馬台詩が本朝へ伝わった由来を説く説話なので、『簠簋内伝』は登場しない。
  5. ^ 『元亨釈書』[6]や『峯相記』[7]に採録。
  6. ^ 長谷寺縁起は数々の伝承があり、菅原道真が書いたと喧伝される『長谷寺縁起文』がその代表とされる。
  7. ^ 訓読すると「遂に空と為らん」になるので、最後の文字は「為」となる。
  8. ^ 『簠簋抄』をはじめ、しのだづまものの作品では、下の句は「しのだの森の うらみ葛の葉」となっている。「葛の葉」は「うらみ(裏見)」の枕詞なので、短歌的には「うらみ葛の葉」で正しいのだが、通常「裏見」は「恨み」の掛詞として扱われることが多いため、泣く泣く別れなければならない母/妻が子/夫に残す歌としては不適当な表現であり、これを気にした了意が改変したものと考えられる。
  9. ^ 古井戸秀夫は「竹田出雲『蘆屋道満大内鑑』(動物神の力)(近世幻想文芸攷--江戸の怪奇・幻想空間<特集>) -- (ようこそ怪奇・幻想のワンダーランドへ)[8]」の中で、「『しのびしのびに』とあった下の句の古いかたち」が「うらみ葛の葉」へと変化したと断定した。しかし、本書よりも古い「恋しくば…」の歌の記録は『簠簋抄』以外に現存せず、『簠簋抄』ですでに「うらみ葛の葉」となっているので、「しのびしのびに」が古形であるという古井戸説には根拠がない。なお、古井戸は「しのびしのびに」が古形であるという説は、黒沢幸三の「信太妻の一考察[9]」が典拠であるかのように書いているが、「信太妻の一考察」およびその改稿である「信太妻の源流と成立[10]」のいずれにおいても、黒沢は「しのびしのびに」に言及していない。
  10. ^ 須永朝彦[11]および篠原安代[12]の現代語訳では、元々箱には「一」の文字が書いてある展開となっており、これは『簠簋抄』の展開と同じである。しかしこの解釈でいくと、晴明はわざわざ術をかけて箱を封印しながら、その解除法を箱の上に大書していたという、コントのようなことになってしまうので、ここでは採用しなかった。ちなみに朝倉治彦の翻刻文[1]では「箱の上に、一文字を書たり」である。
  11. ^ 『剣巻』では「宇治」の橋姫とある通り、京都市街地から大和大路を南下し、宇治川のほとりで沐浴するのだが、了意は貴船川での沐浴に変更している。
  12. ^ a b 日取之巻の目録(目次)では単独項目扱い、本文では「金神七殺の方」の副項目扱い。
  13. ^ 人相巻上の目録(目次)にはないが、本文に存在する項目。
  14. ^ 本書と『簠簋抄』の関係については渡辺守邦「晴明伝承の展開」[14]に詳しい。
  15. ^ 史実では、吉備真備は天平勝宝4年(752年)に2度目の遣唐使随行をなしているが、このときも阿倍仲麻呂は存命中。
  16. ^ 『簠簋内伝』は漢文で記述されている。
  17. ^ 北宋の陳摶が伝え、明の袁珙/袁忠徹親子が校訂したとされる人相・手相の解説書(相術書)[16]。漢籍であり、和刻書が初めて刊行されたのが慶長4年(西暦1599年)。
  18. ^ 『臥雲日件録抜尤』(相国寺の瑞渓周鳳の日記の抜粋)の応仁元年(西暦1467年)10月27日の項に断片的な記述がある[18][19]
  19. ^ 正確な成立年代の特定はできないが、版本としては寛永4年(西暦1627年)刊行のものが現存し、さらに慶長17年(西暦1612年)写とされる写本も確認されている(この写本は1981年の古書販売会以降所在不明)[21]
  20. ^ 本書よりも古い「しのだづま」の伝承として、説経節の「信田妻」という演目の存在が挙げられる。これは折口信夫が「信太妻の話」[20]を発表した時点(初出1924年)ですでに定説化していたが、正本(上演台本)が現存していないため、上演されていた年代や内容が不明であり、推測の域を出ない。
  21. ^ 『簠簋抄』に先行したと推定される作品・記録として、『簠簋袖裡傳』[22]および『臥雲日件録抜尤』[19]が存在する。しかし『簠簋袖裡傳』は「晴明の母=狐」という「しのだづま」の中心的な伝承が欠け、『臥雲日件録抜尤』は聴耳系説話だけしか収録していない。
  22. ^ 本書と『安倍仲麿入唐記』の間には「この内容には、直接の引用関係を見てとることができる」[23]とされている。
  23. ^ 正確に言えば、『簠簋抄』の暦占書部分は『簠簋内伝』の注釈で、本書のような占いのハウツーではない。
  24. ^ この違和感のある構造を、「仮名草子の特性といわれる啓蒙・実用性をやや誇張ぎみに顕示する興味深い構造」[3]と評価する向きもある。
  25. ^ 「長谷寺」の項の道明上人に関する割注に「乃チ法道仙人也」とあり[25]、両者を混同している。
  26. ^ 現代人から見ると「脱線」としか感じられないこの構造だが、「仮名草子にしばしば見うける、いわゆる啓蒙意識のあらわれ」であり、「当時の読者からは、必ずしも無用とされたわけではなかったかもしれない」という指摘[14]もある。
  27. ^ 厳子陵の説話は、『簠簋抄』の「由来」ではなく、本文の解説部分に採録されている[27]のだが、『簠簋抄』では厳子陵の相手を正しく光武帝としている。
  28. ^ 本作が書かれた半世紀ほど前、五条橋東北の中州に、晴明塚とされる塚のあった法城寺(現・心光寺)が、数度の氾濫のため、慶長12年(西暦1607年)に現在地に移転した(『雍州府志』(西暦1682年 - 1686年・刊)に依る)。この歴史的事実を作中に取り込んだといえなくもない。
  29. ^ 記載された番号を順に書き上げると「…⇒ 十四 ⇒ 十八 ⇒ 十六九 ⇒ 十八 ⇒ 十九 ⇒…」となる。
  30. ^ 連番の並びは「…⇒ 廿一 ⇒ 廿三 ⇒ 十二」となっている。

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