明王太郎代々
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初代明王太郎文観(金丸太郎、神号:明王工門霊神)金丸左衛門尉信常の子。東大寺造立の功績で従六位下を賜り、飛騨守に任ぜられたという。宝亀5年八月二十八日没。 明王太郎末孫吉宗明応2年(1493年)に光明寺仁王門を造立した。 田中明王太郎影吉元和9年(1623年)に平塚市岡崎の駒形神社を造営した。 田中明王太郎吉當(別名:金丸神太郎)元禄3年(1690年)の日光東照宮修復に参加したほか、4度の大山寺造営に携わり、内3度は棟梁を務めた。理由は不明だが、江戸表では「金丸神太郎」を名乗ったと言われる。 田中明王太郎當是享保19年(1734年)、現在の前鳥神社本殿を造営したとされる。 手中明王太郎景直(別名:金丸彦五郎、神号:明王規巧霊神)當是の子。江戸城や京都御所の造営に関わり、大山石尊社を再建した。伊勢原市日向の石雲寺本堂、平塚市田村の八坂神社社殿が現存している。天明5年(1785年)に造られた上秦野神社神輿が現存し、明王太郎の手による最古の神輿として知られている。優れた技術とともに筆まめとしても知られ、自身の大工技術に関わる書物を多く書き残し、継承に努めた。 手中明王太郎景喜 手中明王太郎信景大住郡中荻野村に直右衛門の次男として生まれる。景直に弟子入りし、腕を見込まれて婿養子となって明王太郎を継いだ。文化4年(1807年)に手がけた横浜市岡津の三島明神社本殿が現存している。 手中明王太郎景定 手中明王太郎敏景(師職として:小川監物)信景の子。江戸城本丸普請に作事方として加わった。寺社建築では天保6年(1835年)に建てた高尾山薬王院表門などが残る。次代の景元は前鳥神社旧大神輿を敏景の作と記録している。 八十九世手中明王太郎景元(忌部景元)文政2年(1819年)に鎌倉郡平戸村 田中小兵衛の三男として生まれる。敏景に弟子入りし、腕を見込まれて婿養子となって明王太郎を継いだ。幕末から明治にかけて名工として活躍し、多くの寺社建築に卓越した技術を残す。寺社の普請や当時の世情を詳細に日記に記録する筆まめで、後に「明王太郎日記」と呼ばれる百冊以上の日記帳は、この時期の相州の市井を知る上で資料価値が高い。神輿の製作にも秀で、前鳥神社神輿の「ギアマン張り二重露盤」に見られるような斬新な発想と神輿の重厚さを両立させ、相州神輿の傑作を多く生み出した。明治39年(1906年)3月、86才で死去。 九十世手中明王太郎景堯(忌部景堯)明治4年(1871年)に景元の三男として生まれる。幼名は五郎。明治39年(1906年)に手中明王太郎景堯を襲名。景元に劣らぬ技術で神奈川県の寺社・神輿を多く手がけている。大正8年(1919年)、父景元が製作した前鳥神社神輿の木割に基づいて秦野市乳牛町内の乳牛神輿を製作した。この時47才、円熟期のもので白眉の代表作される。昭和26年(1951年)、跡継ぎのないまま景堯が79才で死去したことで、堂宮大工としての明王太郎の歴史に終止符が打たれた。
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