明王太郎代々とは? わかりやすく解説

明王太郎代々

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 14:46 UTC 版)

明王太郎」の記事における「明王太郎代々」の解説

初代明王太郎文観金丸太郎神号明王工門霊神金丸左衛門尉信常の子東大寺造立功績従六位下賜り飛騨守に任ぜられたという。宝亀5年八月二十八日没。 明王太郎末孫吉宗明応2年1493年)に光明寺仁王門造立した。 田中明太郎影吉元和9年1623年)に平塚市岡崎駒形神社造営した田中明太郎吉當(別名:金丸神太郎元禄3年1690年)の日光東照宮修復参加したほか、4度大山寺造営携わり、内3度棟梁務めた理由不明だが、江戸表では「金丸神太郎」を名乗ったと言われる田中明太郎當是享保19年1734年)、現在の前鳥神社本殿造営したとされる手中明王太郎景直(別名:金丸五郎神号明王規巧霊神)當是の子。江戸城京都御所造営関わり大山石尊社を再建した伊勢原市日向石雲寺本堂平塚市田村八坂神社社殿現存している。天明5年1785年)に造られ上秦野神社神輿現存し明王太郎の手による最古神輿として知られている。優れた技術とともに筆まめとしても知られ自身大工技術関わる書物多く書き残し継承努めた手中明王太郎景喜 手中明王太郎信景大住郡中荻野村に直右衛門次男として生まれる。直に弟子入りし、腕を見込まれ婿養子となって明王太郎継いだ文化4年1807年)に手がけた横浜市岡津三島明神社本殿が現存している。 手中明王太郎景定 手中明王太郎敏景(師職として小川監物)信景の子江戸城本丸普請作事方として加わった寺社建築では天保6年1835年)に建てた高尾山薬王院表門などが残る。次代景元前鳥神社大神輿を敏景の作と記録している。 八十九世手中明王太郎景元忌部景元文政2年1819年)に鎌倉郡平戸村 田中小兵衛の三男として生まれる。敏景に弟子入りし、腕を見込まれ婿養子となって明王太郎継いだ幕末から明治にかけて名工として活躍し多く寺社建築卓越した技術を残す。寺社普請当時世情詳細に日記記録する筆まめで、後に「明王太郎日記」と呼ばれる百冊以上の日記帳は、この時期相州市井を知る上で資料価値が高い。神輿の製作にも秀で前鳥神社神輿の「ギアマン張り二重露盤」に見られるような斬新な発想神輿重厚さ両立させ、相州神輿傑作多く生み出した明治39年1906年3月86才で死去九十手中明王太郎景堯(忌部景堯)明治4年1871年)に景元三男として生まれる。幼名五郎明治39年1906年)に手中明王太郎景堯を襲名景元劣らぬ技術神奈川県寺社神輿多く手がけている。大正8年1919年)、父景元製作した前鳥神社神輿木割基づいて秦野市乳牛町内乳牛神輿製作した。この時47才、円熟期のもので白眉代表作される。昭和26年1951年)、跡継ぎのないまま景堯が79才で死去したことで、堂宮大工としての明王太郎歴史終止符打たれた。

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