昌泰の変とは? わかりやすく解説

昌泰の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:08 UTC 版)

宇多天皇」の記事における「昌泰の変」の解説

宇多譲位後道真後ろ盾となり、時平独走防ごうとしていたが、一方で仏道熱中し始めた昌泰2年899年10月24日には出家し東寺受戒した後、仁和寺入って法皇となった。さらに高野山比叡山熊野三山にしばしば参詣し道真援助十分に行えなくなった詳細は「昌泰の変」を参照 昌泰4年901年正月道真宇多の子で自らの婿でもある斉世親王皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府左遷された。この知らせ受けた宇多急遽内裏向かったが、宮門固く閉ざされその中で道真処分決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多自己の皇統安定のために醍醐皇太子決定急ぎ結果的に当時男子のいなかった醍醐後継をその弟から出すことを考えようになった加えて醍醐許した基経の娘・藤原穏子入内にも反対したために、これに反発した醍醐時平図って法皇代弁者みなされ道真失脚させたという説を提示している。それでも晩年には病気がち醍醐天皇に代わって、実際政務をみていた可能性もあると考えられている。 延喜元年昌泰4年改元12月13日宇多受戒の師を益信として東寺伝法灌頂受けて真言宗阿闍梨となった。これによって宇多弟子僧侶取って灌頂授け資格得た宇多弟子になった僧侶彼の推挙によって朝廷法会参加し天台宗比べて希薄であった真言宗朝廷との関係強化地位の向上資した。そして真言宗発言力高まり宇多朝廷への影響力回復させる足がかりになったとされる延喜21年921年10月27日醍醐から真言宗開いた空海に「弘法大師」の諡号贈られているが、この件に関する宇多直接関与証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇宇多)が空海追憶している事を理由にあげている。 延喜13年3月13日913年4月22日)には後院亭子院大掛かりな歌合亭子院歌合」を開いた。これは国風文化盛行流れ後押しするものとなった延喜11年911年6月15日亭子院水閣開いた時、臣から酒豪選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦)。 承平元年7月19日931年9月3日)に崩御宝算65日記に『宇多天皇御記』がある。

※この「昌泰の変」の解説は、「宇多天皇」の解説の一部です。
「昌泰の変」を含む「宇多天皇」の記事については、「宇多天皇」の概要を参照ください。

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