日米間の協議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:12 UTC 版)
1969年(昭和44年)に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1971年(昭和46年)沖縄返還協定調印、その後1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。 内閣総理大臣・佐藤栄作はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した。なおアメリカ軍がベトナムから全面撤退したのは、沖縄返還の翌年の1973年(昭和48年)3月29日であった。 また、日本への返還に際し、日本政府は返還協定第7条に基づき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払った。西山太吉は実際の支出総額が5億ドルをはるかに超えて、密約として処理されたと主張している。 「特別支出金」の内訳には、琉球水道公社や琉球電力公社、琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設や琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などのアメリカ軍政下で設置された民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの対価を支払った。
※この「日米間の協議」の解説は、「沖縄返還」の解説の一部です。
「日米間の協議」を含む「沖縄返還」の記事については、「沖縄返還」の概要を参照ください。
- 日米間の協議のページへのリンク