日本開国任務
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「ミシシッピ (蒸気フリゲート)」の記事における「日本開国任務」の解説
1849年から1851年の間は地中海で任務につき、この間にハンガリーの革命家コシュート・ラヨシュの亡命を手助けしている。その後、ペリーの日本訪問艦隊の旗艦となるべく、米国に戻った。この任務はもともとジョン・オーリックに与えられたものであったが、オーリックが中国で病を得たため、ペリーがその代わりを務めることになったものである。艦隊はハンプトン・ローズを1852年11月24日に出港、マデイラ、喜望峰、香港を経て、1853年5月4日に上海に到着した。ここでミシシッピは旗艦任務をより新しい蒸気外輪フリゲートであるサスケハナに譲っている。艦隊は5月17日に上海を出航し、5月26日に那覇に到着、琉球王国に開国を促す大統領親書を手渡した。6月9日に那覇を出航、6月14日から6月18日にかけて、小笠原諸島を探検した。6月23日に一度琉球へ帰還し、7月2日に日本へ出航した。1853年7月8日(嘉永六年六月三日)に浦賀沖に到着。ペリーは海軍および外交歴上最も困難かつ重要な任務の一つとされる日本開国任務を開始した。フィルモア大統領の親書を幕府に提出後、艦隊は7月17日(六月十二日)に江戸を離れ、香港へ帰った。1854年2月13日(嘉永七年一月十六日)、ミシシッピは旗艦サスケハナ、新たに加わった蒸気外輪フリゲートであるポーハタン、および3隻の帆走艦と共に、再度浦賀に到着した。3月31日(三月三日)、日米和親条約が締結され、さらに6月20日(五月二十五日)に和親条約の細則を定めた下田条約が締結された。艦隊は6月25日(六月一日)に日本を離れた。 ミシシッピは1855年4月23日にニューヨークに戻り、1857年8月19日再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートした。1859年6月にはジョサイア・タットノール代将の旗艦として、英国及びフランス軍と協力して大沽砲台を攻撃した。2ヵ月後にはアメリカ領事からの要請により、上海の治安回復のため部隊を上陸させている。1860年にはボストンに戻るが、南北戦争の勃発により新たな任務についた。
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日本開国任務
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詳細は「黒船来航」を参照 1852年11月に、東インド艦隊司令長官に就任、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート「ミシシッピ」を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。7月14日(6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。 太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。その後、艦隊は香港に向かった。
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