日本開発銀行勤務
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日本開発銀行設備投資研究所で初代所長を務めていた下村治にあこがれ、大学を卒業し同行に入行。1977年(昭和52年)、同所勤務、1981年(昭和56年)、ハーバード大学、ペンシルベニア大学客員研究員。ハーバード大学留学中は設備投資に関する合理的期待の実証研究を行った。1982年(昭和57年)、大蔵省財政金融研究室(後、独立機関「―財政金融研究所」となる)に出向し、次席主任研究官となる。当初2年の予定だったが、行動力がありローレンス・サマーズやジェフリー・サックスの知り合いだった竹中を気に入った長富祐一郎次長(のちに大蔵省関税局長)の希望で、5年間研究官を務めた。長富からは研究所への移籍をすすめられたが、これを断っている。ちなみにこの時の部下の一人が高橋洋一であった。 研究所在籍中の1984年(昭和59年)には留学中の研究成果をまとめた『開発研究と設備投資の経済学』(東洋経済新報社 1984年〈昭和59年〉7月)と題する著作でサントリー学芸賞を受賞[ただし佐々木実『竹中平蔵 仮面の野望(前編)』(月刊現代2005年〈平成17年〉12月号)では当時の設備投資銀行の同僚の鈴木和志(現在明治大教授)や日本開発銀行での同僚高橋伸彰(現在立命館大教授)の実証分析の結果を無断で使用していた事実が指摘されている]。当時の同研究所には、次長の長富祐一郎や筆頭主任研究官の吉田和男がおり、同僚として植田和男、高橋洋一がいた。
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