日本輿地路程全図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:53 UTC 版)
長久保赤水は江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図』を参考に、明和5年(1768年)に原図となる「改製日本分里図」を作り、安永8年(1779年)には『改正日本輿地路程全図』の初版を完成。翌年、大坂で出版した。赤水の存命中の寛永3年(1791年)に第2版が刊行され、赤水の死後も1811年、1833年、1840年に版を重ねている。 『幸安図』にも『赤水図』にも、当時未開拓であった北海道は一部しか描かれていない。また、経線緯線が記載されているが経線には経度が記載されていない。『幸安図』や後に作成される伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』も、京都を基準に経線が引かれている点で共通点が見られる。10里を1寸としているので、縮尺は約129万分の1となる。8色刷の色刷りで、蝦夷(現在の北海道)や小笠原諸島・沖縄を除く日本全土が示されている。 『改正日本輿地路程全図』は、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に5版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われた。沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る考証の末、完成した地図は、出版当時としては驚異的な正確さであった。 赤水図は広く普及したためドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館を含む世界6か国の博物館などで44枚収蔵されていることが確認されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われる。 また近年、ロシア語訳の赤水図が、1809年と1810年にロシアで発行されていたこともわかってきた。 これらの地図には、現在、日本と韓国の間で領有問題の起きている竹島が当時の名称「松島」で記されており、日本では日本領有を裏付ける資料としてしばしば引用されている。
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