林子平の地図と領有権研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:21 UTC 版)
「保坂祐二」の記事における「林子平の地図と領有権研究」の解説
1785年に林子平が制作した「三国接壌之図(三国通覧輿地路程全図)」には竹嶋(現在の鬱陵島)が描かれており、その北東近傍にある小島と共に朝鮮半島と同色で描かれている。またこの島の左には朝鮮の領土と記されている。保坂はこの北東近傍の小島を現在の竹島だとして現在の竹島はこの時すでに朝鮮領であったとしている。また、林子平が地図を作成する際は当時日本で普及していた長久保赤水の改正日本輿地路程全図(1779年)を元にしたとしており、子平の地図の竹嶋(鬱陵島)北東近傍の小島は赤水の地図に記載された松島であり、子平はこの二島を明確に朝鮮領土としていると主張している。(赤水の日本地図には松島「現在の竹島」が記載されており、本土と同色に描かれているものがあるため日本領の根拠の一つとなっている) また保坂は、子平の地図は1854年に江戸幕府が小笠原群島の領有権をアメリカと争ったときに使用された日本の公式地図であるので、当時の日本政府は現在の竹島を朝鮮領だと認めているとしている。ただし、江戸幕府とペリー提督の間で小笠原諸島領有の交渉が行われた記録は日米の公式記録にはなく、ペリーが記した「ペリー艦隊日本遠征記」にも記録がない。京都産業大学教授若松正志の調査によって、このエピソードは藤原相之助の書いた新聞連載小説「林子平」『河北新報』大正13年(1924年)11月16日掲載分に記載された内容と一致することが判明している。
※この「林子平の地図と領有権研究」の解説は、「保坂祐二」の解説の一部です。
「林子平の地図と領有権研究」を含む「保坂祐二」の記事については、「保坂祐二」の概要を参照ください。
- 林子平の地図と領有権研究のページへのリンク