日本古典への傾倒と「鎮魂」
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「堀辰雄」の記事における「日本古典への傾倒と「鎮魂」」の解説
1937年(昭和12年)の春を迎え、張りつめていた気持ちが緩み、「何かいひしれぬ空虚」に襲われた堀は、それから脱するために、ひたすら日本の美しさに心を向け出し、少年時代に愛読していた『更級日記』や『伊勢物語』、リルケ体験から結びついた王朝文学へ傾倒する。6月に初めて京都へ旅行。11月に堀は、前年に室生犀星宅で知り合った折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受け、王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』を追分の油屋旅館で書き上げた。その原稿郵送のための軽井沢移動中に、旅館が全焼したために、年末、軽井沢の川端康成の別荘を借り、『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」も書き上げた。 1938年(昭和13年)2月に向島の自宅で喀血し、神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現:鎌倉市)の額田病院に入院後(3月に退院)、前年6月に追分で知り合った加藤多恵(1913年7月30日生 - 2010年4月16日没)と、室生夫妻の媒酌により4月に結婚。軽井沢に別荘を借りて新居にする(のちに逗子や鎌倉などを転々とする)。5月に向島に住む養父・松吉が倒れ、夫婦で看病し一旦小康を得るが、松吉は12月15日に死去。 1939年(昭和14年)2月に『かげろふの日記』の続編「ほととぎす」を『文藝春秋』に発表。3月29日に立原道造が結核のため中野区江古田の療養所で死去。24歳だった。堀は立原を弟のように思っており、立原も堀を兄のように思い、慕っていた。5月に神西清と奈良へ旅行。1940年(昭和15年)6月に「魂を鎮める歌」(のち「伊勢物語など」に改題)を発表。この作品は『万葉集』などからリルケの『ドイノの悲歌』にも結びつけられ、「人々の魂の清安をもたらす、何かレクヰエム的な、心にしみ入るやうなものが、一切のよき文学の底には厳としてあるべきだ」という信念の元で執筆され、堀の内部で折口信夫とリルケとが重ねあわされている。
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