日本列島におけるネズミ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:53 UTC 版)
縄文時代の貝塚における発掘調査で、微小な動物遺体の水洗選別を行った際にネズミの骨が回収されている。これらはアカネズミ・ヒメネズミなど森林性のネズミ類であり、狩猟対象獣であるイノシシ・シカ・タヌキなどに比べて微量であること、また小さいことから食用ではなかったと考えられている。また、貝塚から出土する動物遺体には、ネズミの齧り跡が認められることもある。 東京都北区に所在する七社神社裏貝塚では、魚骨・貝殻などが廃棄されていた縄文後期前葉の土坑内部からハタネズミ・アカネズミで構成される大量のネズミが出土している。ゴミ坑から出土したことから食用であることも想定されるが、全身の部位が残っている個体が多く、焼けた形跡も見られない。このため食用ではなく、縄文人の採集生活において、堅果や加工品を食糧とする森林性のネズミは競合関係にあり、このため駆除を目的としてゴミ坑に廃棄しており、また土坑は落とし穴として機能していた可能性も考えられている。 弥生時代にも人間の生活圏にネズミが存在した痕跡が見られる。1947年(昭和22年)に静岡県静岡市に所在する登呂遺跡における発掘調査により出土した楕円形・蓋状の木製品は、その後の類似した木製品の出土事例の増加により、食料貯蔵庫である高床倉庫の柱に設置するネズミ返しであるとする説が提唱された。高床倉庫のネズミ返しは、取り付け位置・ネズミの種類からクマネズミ属のクマネズミ・ドブネズミには通用せず、ハタネズミを対象としたものであり、そもそもクマネズミ属は弥生時代には生息していなかったとも言われる。 一方で、奈良県磯城郡田原本町唐古に所在する唐古・鍵遺跡では、弥生時代のものと推定されるドブネズミの骨が出土している。また、同遺跡から出土した壺形土器には、4本の掻き傷が見られ、大きさ・本数からネズミのものであると考えられている。ドブネズミは東南アジアを起源とするクマネズミ属であり、世界中に進出している。一般に集落の形成期にはハタネズミ・アカネズミなどの野ネズミが多く出土し、集落の成長に伴い人家の周辺に生息するドブネズミが出現し、さらに集落が衰退すると再び野ネズミが増加するという。唐古・鍵遺跡における出土事例から、弥生時代には稲作農耕の開始に伴い渡来したとする説がある。従来、日本列島へのネズミの渡来は飛鳥時代に遣唐使の往来に伴い渡来したとする説や、江戸時代に至って渡来したとする説もあったが、唐古・鍵遺跡の事例により、これを遡って弥生時代には渡来していたと考えられている。 石川県金沢市に所在する畝田ナベタ遺跡から出土した平安時代(9世紀)の木簡には、ネズミ歯形が認められてる。この木簡は籾の付札で、穀倉を棲家とするネズミが存在していたことを示している。同時代には、宇多天皇の日記『寛平御記』などの文献資料において、猫の飼育に関する記録が見られ、仏典などを守るためネズミの天敵である猫が導入されたとする説もある。
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