日本の泣き習俗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 07:52 UTC 版)
柳田国男は、「なく」ことは元来「鳴く」の字を当てるように声を上げる意味で用いられたものが、「泣く」などの字を当てるようになったことで涙と結びつくようになったとする。 また「かなしい」という言葉も本来は感動の最も切なる場合を表す言葉であって、悲哀の情と結びついたのは学問的影響であると述べる。『古事記』や『日本書紀』では「なく」の語に「哭・啼・鳴・泣」などの字を当てていて、声に焦点を当てるか、涙に焦点を当てるかで用字は異なってくる。平安朝の文学『伊勢物語』『紫式部日記』『讃岐典侍日記』などにおいては、「泣く」と「涙」に明確な使い分けがあり、声を立てて泣いた場面では「泣く」が用いられている。 国産み神話においてイザナギの涙から生まれたとするナキサワメ(泣沢女神・哭沢女神・啼沢女神)は、水神としての性格を持っている。日本書紀には、鳥たちが天稚彦の喪屋において葬送儀礼をおこなう場面で「哭者(なきめ)」が登場する。古代儀礼において死者を弔い哭く役(つまり泣き女)の女神としてナキサワメが存在した可能性もある。1940年代に柳田の報告するところでは、葬礼における泣き女の風習は既に見聞しえないが、葬儀の日には誰でも泣くべきものという慣習は、つい最近まで存在したという。 一方で柳田の言う、神や霊を送る際の演技的な泣き(ラメンテーション、英: lamentation)に関する祭りは、近代にも多く伝わっている。例えば神奈川県の馬入川流域では子どもたちによる「泣き祭」の記録があり、三月の節供の流し雛の際には悲しくなくても泣かねばならないという記録がある。菅江真澄は、津軽三厩における盆の十五日の魂迎えの儀式で子供たちが泣きあう様子や、奥州平泉の花立山で、藤原基衡の妻の命日である4月20日に行われていた「哭祭」について記録している。 赤ん坊が泣きだすまでの早さを競ったり、泣く様子を見守る「泣き相撲」なる行事は、東京の浅草寺をはじめとして、長崎県平戸市の最教寺、栃木県鹿沼市の生子神社、熊本県上天草市の下桶川不動神社などに伝わっている。相撲という形を取らないまでも、この種の行事は宮参りの習俗の中に一般的にみられたものであった。ここでは氏神様に赤ん坊の存在を知らせるために神前でわざと泣かせるような行為が行われていた。すなわち、赤ん坊にとって「泣く」という行為が存在を主張する最大の手段と考えられていたと言える。
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