日本におけるアーサー・マレーとアメリカンスタイルの流入
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「アーサー・マレー」の記事における「日本におけるアーサー・マレーとアメリカンスタイルの流入」の解説
日本において、アメリカのペアダンスは戦前から流入しており、1910年代からフォックストロットやジッターバグ等が人気を博していた。 日本の社交ダンス界の王と呼ばれ、日本のダンス教師の草分けであり、「日本舞踏教師協会(JATD)」(現在の「日本社交舞踏教師協会」(NATD))を発足させ、ヴィクター・シルベスターの「モダン・ボールルーム・ダンシング」と「セオリー・アンド・テクニック・オブ・ボールルーム・ダンシング」の訳本等を上梓し、インターナショナルスタイルを日本に根付かせた玉置眞吉(たまき しんきち)が、おそらく初めての紹介者であろうと思われる。戦後、玉置眞吉は、ダンス雑誌において、アーサー・マレーとアメリカンスタイルを包括的に紹介する記事を連載している。 1947年7月25日(昭和22年)の『社交タイムス』で玉置は「世の中に目を転じてみよう。多くの人がイングリッシュ・スタイルにこだわらずに踊りを楽しんでいるではないか。ダンス人口の裾野を広げ、生活の中にダンスを定着させるには絶好の機会だ。ダンス教師たる者、これからはイングリッシュ・スタイルだけでは不十分で、やさしいアメリカのダンスも知らなくてはならない」と書いている。 1950年12月(昭和25年)「ダンスと音楽」にはアメリカのアーサー・マレーの本『いかにしたらよいダンサーになれるか How to become a good dancer』を翻訳して紹介している。「心理的にも肉体的にも骨が折れない」アーサー・マレーのダンスは、玉置の目指すものと一致したからである。 1952年(昭和27年)には、アーサー・マレーの監修したダンス・レコードアルバムが、玉置の解説書付きでキングレコードから発売された。玉置はかなりの入れ込みようだったとみてよい。 「英国風ダンスの輸入の家元を以って任ずる私」が、アーサー・マレーのようなアメリカンスタイルを紹介するのは、「一寸皮肉に見える」と書いている。しかし、「今でも熱心な英国舞踏の研究家であり、英国ダンスに対する熱意を有している」自分が、アメリカンスタイルの社交ダンスを啓蒙するのは、「ダンスに対する愛着」があるからだと言っている。しかし、アメリカンスタイルの紹介の連載は、イングリッシュスタイルが幅を利かせる日本の読者からの批判もあり、打ち切られてしまったという。 玉置眞吉は『社交ダンスの踊り方』(1958年/昭和33年)という本の中でアーサー・マレーのダンス上達法に関するアドバイスの25項目を掲載している。 昭和27年1月号(1952年)のダンス雑誌「ダンスと音楽」(モダン・ダンス社)には松田武雄 による「アーサー・マレー・ダンス学校視察記:アメリカに於けるボールルーム・ダンスの生態」という記事が掲載されている。 1957年(昭和32年)に出版された佐々木励による『社交ダンスの習い方』(金園社)には「アーサー・マレー・スタイル・マンボ」が3ページにわたって紹介されている。 なお、米国にインターナショナルスタイルや競技化したダンスが流入するのは、1960年代に入ってからの為、かつての日本人が見たアーサー・マレースタジオの様子はソーシャルスタイルの時代だったことが伺える。
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