日光社の図像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 01:48 UTC 版)
画面中央にほぼ同型の社殿3棟を描き、向かって右に正面4間の堂舎、左に正面3間の堂舎を描き、これらすべて檜皮葺として描かれている。これら5棟は瑞垣で囲まれて周囲と隔てられ、瑞垣中央には鳥居が配されている。瑞垣の外には、左方から多宝塔を描き、その前方に板葺の堂舎、鳥居、鐘楼、茅葺の建物を描く。さらにその下には、左側に堂舎と小祠を、中央に茅葺の建物6棟を描き、最下部には川が描かれている。画面上部には雲で区画された3つの峯が描かれており、画面上部の左右両端には山名の注記と思しき墨消しがあるが、ここに何が書かれているかは判明していない。料紙の状態から、上部10センチメートル、左右両端5センチメートルが切り落とされていると見られるが、その理由は定かではない。 画中には合計41人の人物がおり、社頭では僧侶と神人、瑞垣中央の鳥居の中に巫女、瑞垣の外にも僧侶を描き、他にも念仏聖や山伏といった宗教者、説教師や琵琶法師といった芸能者、高野聖、さらに巡礼の姿が描かれ、その画風から清水寺参詣曼荼羅や長命寺参詣曼荼羅などと同じく、室町時代後期の16世紀頃の作と捉えられる。 前述の通り、1966年から1967年にかけて日光社で発掘調査が行われ、日光社参詣曼荼羅と符合するかたちで遺構が確認されたことから、『日光社発掘調査報告書』(1966)では、本図が現地の往古の景観を描いた史料であるとの判断が提示された。また、同地が高野山~龍神~熊野を結ぶ高野龍神街道に接することから熊野信仰との関連が示唆され、旧蔵の懸仏から祭神を天照大神か高野明神と、熊野権現か春日権現であったのではないかとし、これらから図中の3つの山を護摩壇山、高野山、熊野とする想定が示された。また、那智叢書23巻には平家物語と熊野信仰との関連から本図が取り上げられ、これらを踏まえた鈴木宗朔「日光社信仰について」は、図中に描かれた5つの社殿の扉の描写から、中央三社が1柱ずつ神を祀り、左側摂社は5つの扉を持ち5柱の神を祀る相殿、右側摂社を4つの扉を持ち4柱の神を祀る相殿と見なし、これら12柱の神を祀ることから熊野十二所権現であると考定を示した。このように日光社の信仰を熊野信仰と結びつける見解が示され、その後の諸文献もこれを踏襲している。しかしながら、『紀伊続風土記』の記事はむしろ近世における日光社の信仰のあり方の不確かさを伝えるものであり、「社殿の趣熊野に似たり」とも記すものの、これも現地景観ではなく本図に基づくものである。また、瑞垣の中の建物すべてを社殿と見なす見解は実証的な裏付けを必ずし伴っているわけではない。
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