旅客定員増加と等級変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 08:15 UTC 版)
「大雪丸 (初代)」の記事における「旅客定員増加と等級変更」の解説
1955年(昭和30年)7月1日、1等寝台車の利用客減少と、2等寝台車の極めて旺盛な需要による、1・2等寝台車間の需給不均衡解消のため、国鉄は1等寝台車を2等寝台車(A室・B室)に格下げし、従来からの2等寝台車を2等C寝台車とする、実質値下げ策を実施した。これにより、進駐軍専用列車の流れをくむ、東北本線の急行「十和田」からも1等寝台車が消えた。当時は神武景気と呼ばれた好景気で、旅客輸送量は着実に増加していたが、従来1等寝台を利用していた客層の航空機への転移も顕著となり、孤立した存在となった青函連絡船の1等の利用客も激減し、翌1956年(昭和31年)6月1日、青函連絡船でも、1等船室を2等A寝台に格下げして値下げし、従来からの2等寝台は2等B寝台とした。このとき2等A寝台は2段寝台4人部屋10室のほか、右舷側特別室の特2号室も2段寝台4人部屋の2等A寝台とし、計11室定員44名となっていた。なお左舷側特1号室は特別室とされ、時刻表では定員外とされた。この時期の2等客増加に対し、2等出入口広間に椅子席を設けて定員増を図った。このときの大雪丸の旅客定員内訳は、2等A寝台44名、2等B寝台30名、2等椅子席109名、客室255名で、2等合計438名。3等椅子席194名、3等前部客室230名、3等中部客室210名、3等後部客室180名で、3等合計814名で、総計1,252名になっていた。 その後も続く旅客需要増大に対応し、1958年(昭和33年)4月には、2等B寝台を撤去して、2等婦人席としたほか、下部遊歩甲板右舷船尾の3等椅子席の一部を、2等雑居席に改装している。 1960年(昭和35年)6月1日には、1等寝台車全廃後も、1等展望車連結で運転されていた東海道本線の客車特急「つばめ」「はと」の151系「こだま」形電車への置き換えにより、1等展望車は廃止された。これにより国鉄から1等車は全廃され、その1ヵ月後の同年7月1日、国鉄は、従来の2等を1等に、従来の3等を2等に呼称変更し、3等の呼称は廃止された。これにともない、青函連絡船でも同様の呼び替えが行われた。 特急「おおぞら」運転開始を控えた1961年(昭和36年)6月28日、1等出入口広間から喫煙所にかけてのスペースに、1等指定椅子席として下腿を載せるレッグレスト付きで、寝台代用にもなるリクライニングシート 60席が設置された。これにより、旅客定員は1等寝台44名、1等指定席60名、1等椅子席47名、1等座席359名、1等計510名、2等椅子席258名、2等座席620名、2等計878名で合計1,388名となり、新造時のゆとりのあった広間は失われていた。
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