新東京国際空港との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 09:47 UTC 版)
千葉県内陸部での建設が予定されていた新東京国際空港(現・成田国際空港)に対し、「田中正造になって、絶対に飛行機は飛ばさせないぞ」と執念を燃やし、地元住民らに働きかけて反対活動を続けた。 当初建設地とされた富里村へ100回以上通いつめて小川代議士らとともに講演会や座談会に出席し、地元住民には「航空機の騒音というのは庭先でオートバイを吹かすようなものだ」「父ちゃんは取り換えることができるが畑は取り換えもきかないよ」「(用地買収で受け取った)お金から利息でさらにもうけられるくらいならみんな今ごろ百姓やってる者はおるまい」「防音林で航空機騒音は防げない」等と説いてまわり、「富里に土地を持つ会」の創設に関わって一坪共有地運動を煽動した。 国会では何度も空港問題について政府に質問し(参議院予算委員会では、補償を十分にするとしたうえで「北海道でも東北でも、広いところへまた行って新しい農業をやってもらうということも一つの方法ではないか」と答弁した松浦周太郎運輸大臣の言葉尻を捉えて噛みつき、運輸委員会では「日本がこれ(国際空港)を獲得しなければ上海に(国際路線が)いくという説がずいぶんあります」と答弁する松浦大臣に「(国際線など)どこへいったってかまわない」と吐露している)、用地買収の妨害工作である「マンモス共有運動」を展開した。1965年12月に開催された行政からの空港説明会には「昔の女郎屋のやり手婆みたいな手練手管のプロにはかないっこないよ。女郎屋に上がるまいと思うなら、まずやり手婆から逃げ出すことだよ」と不参加を呼びかけ、説明会を仕掛けた友納武人千葉県知事を激怒させている。 結果、政府は規模を縮小して国有地が多い現在の成田空港の位置に計画変更を余儀なくされ、富里は「勝利」した(問題自体は場所を移して成田空港問題として継承された)。 加瀬は自身の空港問題の質問について、東京湾重油流出(明原丸)問題・教科書問題・天下り問題とともに「いく分他には類例のない、爪痕くらいは国会史に残した」と自負している。 その後も引き続き富里の反対運動に刺激を受けた成田市・芝山町の住民らが展開した三里塚闘争に参加し、1971年に行われた成田空港予定地の代執行では座り込みを行い、一坪地主にも名を連ねた。
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