新東京国際空港問題との関わりとは? わかりやすく解説

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新東京国際空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:23 UTC 版)

河野一郎」の記事における「新東京国際空港問題との関わり」の解説

新東京国際空港現在の成田国際空港建設にあたっては、建設大臣として強硬に木更津埋め立て案推進していた。1963年8月27日に、航空行政管轄する運輸大臣であった綾部健太郎から、羽田空港との管制兼ね合い理由木更津案を否定し代案として富里霞ヶ浦周辺候補地として示されときには河野は「いったい道路河川改修どうするのだ。建設省の手借りず何ができるというのだ。羽田など廃港してしまえ。羽田生鮮品砂利セメントなど建設資材流通基地として存続すれば良い新空港木更津沖だ」と大変な剣幕であった。なお、河野浚渫業を営む小川栄一近しい関係にあり、産業計画会議1964年出した勧告産業計画会議提案する新東京国際空港』は河野松永安左衛門らに働きかけて出させたものだといわれる1963年12月11日運輸省航空審議会富里最有力候補とする答申出した後も、浦安沖など東京湾内の埋立による建設主張し続けた河野自身「なぜこんなに空港問題に)ムキになるのかと、自分でも思うことがある医療にしろ、三矢問題にしろ、当面問題がいろいろあるのに、五年さき、八年さきの問題うき身やつして、なんになるのだろうなあ。だいたい、そのころ、僕も(運輸相就任した松浦君もどうなっているかわからんのにね」と述べていたが、その言葉どおり1965年急逝した新空港の建設地は、河野死亡した4か月後に運輸省案の『富里八街空港』に一旦内定するが、河野介入もあって政府部内での意見調整時間費やされ結果地元との調整が全く行われていなかったために、現地での大規模な反対運動招いた。これらを受けて、翌1966年空港規模縮小したうえで、約4 km北東移動して国有地公有地が多い成田市三里塚決定した(→成田空港問題)。

※この「新東京国際空港問題との関わり」の解説は、「河野一郎」の解説の一部です。
「新東京国際空港問題との関わり」を含む「河野一郎」の記事については、「河野一郎」の概要を参照ください。

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