新世代の『ガロ』
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創業者である長井勝一を支持する歴代の作家陣などの精神的・経済的支援や強い継続の声、そして長井の座右の銘「継続は力なり」をモットーに新人発掘の場として細々ながらも刊行は続き、低迷しながらも会社は存続したが、1990年代に入り長井の高齢と経営難から、松沢呉一の仲介でPCソフト開発会社の株式会社ツァイトの経営者である山中潤が1990年9月より青林堂代表取締役社長に就任し経営を引き継ぐ。 山中潤は『ガロ』1991年12月号誌上で「『ガロ』は差別をなくす目的で創刊したと聞いている。それは単純に『なくそう』『やめよう』と言うのではなく、自分の体を通してそれを問い直してみようという方法だった。この挑戦の姿勢こそ今も続くこの雑誌の本質だ。それは表現としての漫画の可能性を作り出し、今日の漫画に多大な影響を与えた。90年代、僕は『ガロ』を商業ベースに乗せて漫画雑誌を中核に置いたマルチメディア出版社にしていきたい」と宣言し、長井勝一と『ガロ』、青林堂は三位一体であると改めて確認、その形を維持させながら、山中は慎重に会社としての経営、財務と営業、また出版社としての編集体制などを建て直すことに着手する。1992年には長井が編集長を辞し、山中が編集長に就任する[要出典]。この頃、雑誌『SPA!』に『ゴーマニズム宣言』を連載していた小林よしのりがご成婚パレードでオープンカーに乗った皇太子妃雅子が「天皇制反対ーっ」と叫びながら周囲に大量の爆弾を投げつけるという漫画を描き、『SPA!』に掲載拒否されて『ガロ』に持ち込み、無事掲載されるという出来事があった(この漫画は『ガロ』1993年9月号特集「三流エロ雑誌の黄金時代」に特別編として掲載されている)。 1993年には月刊『ガロ』創刊30周年記念作として、障害者プロレスのドキュメンタリー映画『無敵のハンディ・キャップ』を製作。また経営母体となるツァイトでも『ねじ式』を始めとする『ガロ』の名作漫画のPCゲーム化や、根本敬や幻の名盤解放同盟が監修した特殊な映像作品のビデオ化を行う。1994年には青林堂とツァイトとの共同であがた森魚監督による映画『オートバイ少女』を製作するなど、積極的にメディアミックスを展開した。こうした映画のタイアップ企画や『南くんの恋人』『ねこぢるうどん』『おもひでぽろぽろ』のヒットなどで単行本が好調となり、この頃には原稿料も幾らかは支払われるようになった。1995年には青林堂のトレードマークであった神田神保町の材木屋2階から渋谷区初台の雑居ビル8階に社屋を移転する[要出典]。
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