新しいミサ様式の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 06:04 UTC 版)
「トリエント・ミサ」の記事における「新しいミサ様式の誕生」の解説
トリエント公会議以来のミサのあり方を見直す作業は、教皇ピオ12世による1955年の聖週間のミサの改訂から始まった。これによって従来行われていた聖金曜日の伝統的なミサは廃止され、キリストの死をいたむという意味で聖体拝領のみが行われるようになった。同時に聖木曜日の荘厳な晩課も廃止された。このような改革に対し、伝統が失われるという非難の声もあがった。 1960年、教皇ヨハネ23世は、聖金曜日の典礼で用いられていたユダヤ人を指す言葉「ペルフィディス」(Perfidis = 信じないもの)という侮蔑的な表現の削除を命じ、2年後の1962年にミサ典書の全面改訂を行うにいたった。(この1962年版のトリエント・ミサの様式は今でも聖ピオ十世会のミサで用いられている。)ヨハネ23世時代には他にもさまざまな典礼改革が行われた。たとえば第一奉献文の中に聖ヨゼフの名前を加えること、聖ペトロの使徒座といった政治的な意味合いの強い祝日や聖フィロメナなどの伝説の聖人の祝日の廃止、14もあった大祝日前の八日間の祝いの廃止などがある。 1963年12月4日、第2バチカン公会議の第二会期においてミサと典礼の問題が討議された。1964年から1969年にかけてはミサの内容に少しずつ手が加えられていった。祭壇に上がる前に唱える詩篇42とミサの終わりに唱える福音(『ヨハネによる福音書』1:1-14)が廃止されたものの、この頃はミサ自体は依然ラテン語で行われていた。 そして教皇パウロ6世は公会議の決議に従った典礼改革に乗り出し、1969年4月28日の枢機卿会議で「ミサの新しい式次第(Novus Ordo Missae)」について予告し、同年5月2日に、使徒憲章『ミッサーレ・ロマヌム』を1969年4月3日(聖木曜日)付けで公布して、「新しいミサ」の様式について解説した。 パウロ6世の「新しいミサ」とその総則は、1969年4月3日の承認後に何度も修正が加えられ、公式の規範版が発表されたのは、1970年3月のことであった。「新しいミサ」の使用開始の正確な日付は、『ミッサーレ・ロマーヌム』にあるとおりの「1969年11月30日待降節第1主日」ではなく、事実上、1970年から「新しいミサ」の規範版が用いられることになった。(そのため、教皇ベネディクト16世は、2007年7月7日付けの自発教書『スンモールム・ポンティフィクム』で「1970年に教皇パウロ6世が発布したローマ・ミサ典礼書」と呼んでいる。) パウロ6世のミサを批判する人々の中には、ミサの様式が改められてからミサへの参加者の減少、司祭や修道者の減少などが起こったと言う者もある。教皇ベネディクト16世は、「私たちが今日経験している教会の危機は、『あたかも神が存在していないかのような(etsi Deus non daretur)』の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」と述べている。
※この「新しいミサ様式の誕生」の解説は、「トリエント・ミサ」の解説の一部です。
「新しいミサ様式の誕生」を含む「トリエント・ミサ」の記事については、「トリエント・ミサ」の概要を参照ください。
- 新しいミサ様式の誕生のページへのリンク