教団内部における葛藤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 21:52 UTC 版)
世継ぎに決めていたすみと王仁三郎が結婚したことでなおの役割は軽減し、基本的に筆先と神事にすべてを捧げる生活が始まった。当初、教団は国常立尊(男神)が懸かったなおを「変性男子」、豊雲野尊(国常立尊の妻神)が懸かった王仁三郎を「変性女子」と定めており、現実での養母・養子婿関係は宗教的には夫婦関係という微妙な状態だった。なおに天照大神が、王仁三郎にスサノオが懸かって「火水の戦い」という大喧嘩をしたことがある。独断で教団の法人組織化・公認化を進めようとした王仁三郎を反省させるべく、なおは綾部近くの弥仙山の中の宮に「岩戸ごもり」として篭ったこともある。さらに警察の干渉と教団の複雑な人間関係が王仁三郎を苦しめた。「お筆先」を表面的な文字通りに解釈する原理主義に陥る者も多く、彼らは開明的な王仁三郎を激しく攻撃した。すみと結婚して教団の後継者を望む者もおり、権力争いという一面や、金光教由来信者の反発もあった。一方で王仁三郎の方も、当時の信者を痛烈に批判している。母と夫に挟まれたすみは対応に苦慮した。なおと王仁三郎の対立は旧道と新道の対立という「型」という側面があり、すみによれば大喧嘩のあとに談笑する光景がしばしば見られた。また反対派が王仁三郎の排除を訴えなおが神に相談すると、神は娘婿を庇い続けたという。二人の対立には宗教的な意味合いが存在したのである。 1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、信者達は現世の根本的な改革が行われると説いた。教団は宗教的ナショナリズムも重なって終末論的な盛り上がりをみせたが、王仁三郎は冷めた目で彼らを批判している。王仁三郎の筆先にも「今度の戦争は門口である」と信者達の先走りを警告する文面が出ている。その後、日露戦争が日本の勝利で終わると立替熱が冷め、また警察の干渉も厳しくなって失望した信者が次々に教団を去った。半面、火水の戦いといわれたなおと王仁三郎の対立は終息した。 1906年(明治39年)9月、王仁三郎は妻子を残して綾部を出、京都に設置されたばかりの神職養成機関(皇典講究所)に入学、教団合法化を目指して活動を開始する。王仁三郎が去った教団は出口家しか残らないほど衰退した。筆先に用いる紙すら用意するのに苦労し、家財道具を売らねばならなかったという。「(王仁三郎が)この大本を出たらあとは火の消えたように、1人も立ち寄る人民はなくなるぞよ。」と啓示されていた通りになった。 1908年(明治41年)3月、王仁三郎が教団に戻ると再び信者が集まりだした。彼に懸かる「坤(ひつじさる)の金神」を公式に祭ったことで幹部信者の態度も変わり、教団経営の一切は王仁三郎にまかされた。大本はメディア活動を展開し、新たな信者層を開拓。財政状況は劇的に改善したが、直は質素な生活を続ける。贅沢を好まず、農村の生活そのものを送り、神事や啓示の執筆に専念した。
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