政宮の門跡継承と摂家相続問題とは? わかりやすく解説

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政宮の門跡継承と摂家相続問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/22 18:24 UTC 版)

遵仁法親王」の記事における「政宮の門跡継承と摂家相続問題」の解説

元文3年7月22日1738年9月5日)に仁和寺門跡となることが決められるが、入寺得度後日とされた。ところが、寛保3年1742年)に九条稙基鷹司基輝子供のないまま急逝し九条家鷹司家共に断絶可能性出てきたため、関白である一条兼香桜町天皇に対して政宮の養子縁組による摂家相続希望したことで注目されることになる。 まず、先に後継問題生じた九条家では稙基の弟で二条家養子となっていた二条宗基叔父である随心院門跡尭厳後継有力者であったが、兼香は二条家断絶につながる宗基の復帰や既に28歳有職故実知らない尭厳相続異論挟み、政宮の相続求めたまた、宗基を九条家戻して同家相続させる代わりに政宮を宗基の養子として二条家当主にする案も浮上していた。兼香ら九条家以外の摂家では既に得度済ませた尭厳還俗には反対である一方、政宮はまだ入寺得度済ませていないため、摂家後継者となって問題がないという認識であった(政宮以外にも入寺得度済ませていない世襲親王家の子弟も候補挙がっていた)。しかし、桜町天皇は政宮は病弱摂家当主は務まらないと反対し、稙基・宗基の母である信受院も政宮よりも尭厳相続望んだまた、門跡を失う仁和寺激しく反発したこのため江戸幕府判断委ねられその結果尭厳九条家相続することになった九条尚実)。 次に後継問題発生した鷹司家相続においても、基輝の実父でもあった兼香は政宮の相続こだわり見せたが、天皇前回同様に反対し、仁和寺も同様であったまた、武家伝奏葉室頼胤も幕府から一度否定された政宮の相続を再び持ち出すことを懸念している(『禁中並公家諸法度第6条養子同姓から迎えるとする文言があり、政宮の相続にはその規定触れ可能性があった)。天皇は政宮に代わって鷹司家から養子迎えて男系の子孫が続く西園寺家からの養子縁組検討するように命じ、これに対して閑院流清華家からの養子縁組摂家正当性揺るがすものだと兼香を含めた摂家反発するなど紛糾したものの、最終的に天皇と兼香の間で妥協成立し世襲親王家から春日大社卜定に従って養子迎えこととされて幕府この方針を受け入れその結果閑院宮家から淳宮迎えることになった鷹司輔平)。 長坂良宏は桜町天皇皇族(特に皇子)が摂家を継ぐのは特殊な例で望ましくない考え、かつ皇室権威天皇言葉借りれば「王威」)にも悪影響を及ぼすと認識しており、一条兼香僧侶になったものが還俗をして摂家を継ぐのは特殊な例で望ましくない考え、かつ摂家よりも格下の家からの縁組もっての外考えていたと推測している。結果的に摂家相続の話が消滅した政宮は同年12月元服して親王宣下受けた延享4年1747年2月27日親王仁和寺入って大僧正隆幸を師として出家をする。しかし、同年4月に病に倒れて一品親王叙せられたものの、間もなく12歳若さ病没した。号は三摩耶心院。

※この「政宮の門跡継承と摂家相続問題」の解説は、「遵仁法親王」の解説の一部です。
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