政局の混迷・早すぎた死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/06 23:09 UTC 版)
「ミゲル・フレータ」の記事における「政局の混迷・早すぎた死」の解説
1930年代に入ると故国スペインの政治状況は混迷の度を深める。王党派、共和派そしてフランコ将軍率いるファランヘ党のいずれもが、スペインの芸術的英雄であり大スター、フレータの名前を利用しようと画策した。フレータ自身は政治的にはよく言えば中立、悪く言えば無定見であり、政治の趨勢に従って初め王党派支持を表明、1931年の革命で共和制となると同政権支持に鞍替えした。人民戦線政府は彼をマドリード音楽院の声楽教授に任命、一説には文化大臣的地位も与えようとしたともいう。しかしスペイン内戦が勃発、音楽教育への予算が大幅カットされるに及びフレータは人民戦線側を批判、ファランヘ党へ再度鞍替え、同派の戦費調達目的コンサートへ出演するなどした。 ただし、この頃既にフレータの健康状態は悪化しており、常に疲労を訴えていた。正確な病名は不明だが、腎臓病の一種ではないか、と考えられている。1938年5月、彼はラ・コルーニャの邸宅で40歳の若さで死去した。その死についてもファランヘ党側は人民戦線勢力による政治的暗殺であるとの説を唱えるなど、彼の晩年は政治に翻弄される日々だったといえる。 典拠管理WorldCat VIAF: 87668482 LCCN: n85265471 GND: 118862693 MusicBrainz: 3c613682-b5d9-44ce-898c-387a312762b6 BNE: XX903658
※この「政局の混迷・早すぎた死」の解説は、「ミゲル・フレータ」の解説の一部です。
「政局の混迷・早すぎた死」を含む「ミゲル・フレータ」の記事については、「ミゲル・フレータ」の概要を参照ください。
- 政局の混迷・早すぎた死のページへのリンク